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The first
水音を発しながら川は流れている. 緑の豊かな 水量は幾重にもボリュ-ムのある曲線を見せて, 見ている人を吸い込むようなうねりである. 陽 光は柔らかく川の面にキラキラと眩しく揺らい でいる. 水の飛び跳ねる音を集めて川は次から 次と流れ下っている. 穏やかな日である, 本当 に白雲が一, 二つと青空のなかに浮かんでいる のみであり, じっとしていると, 陽の暖かさが, もの憂いように眠たさを誘ってくる.
風も無いせいか水の匂がそのまま川岸を離れな い. 川の流れを囲い下っている堤道には, 梅の 花が咲乱れ淡いピンク色, 浅い竹色, 白色と様 々に開花を誇って辺りに甘味している. 川幅は 十間もあろうか, その両岸に流れがあたり波が 砕け川の中程は水量が幾重にも次から次とうね り見せて, それは, まるで川底より水が尽きる ことを知らないように, 次から次と湧き出てい ると錯覚する様な流れである.
太陽もだいぶ傾き落日の陽が差し込み, 土手の 中腹に眠っていた貴はクシャミとともに目を覚 ました. やはりまだ三月の季節, 陽が傾き始め ると肌寒さがあった. 上半身を起こすと, さら にクシャミを二, 三回続き貴はそれから身を震 わせた. 急に身が引き締まり, 彼は外川の流れ を背にすると家路と帰り始めた.
どの田もうねり返され藁屑が撒かれているが. 人気もなく寒々した田の続く中を貴の歩きは自 然と足早になった. 畦道の脇にひかれている水 路にはまだ水はなく, その中をてくてくと歩き すぎ, やがて, 渋井の辻に出ると貴はどの道を 取るかはたと迷った. それは, 渋井の家並みを 通って古市場河岸, 福岡河岸に架かる養老橋を 過ぎるか. それとも内川の花の木の渡しを行く かの別れ路である.
大宮から福岡村に通じる街道も, 志木から川越 へと通じる街道にも, 生憎, 人も荷馬車もその 気配すら見渡らなかった. 桃色の花弁を見事に 咲かせている梅の木が辻に被さっていた. 子供 の頃とは辺りの景色が変わらないにしても, 道 幅は幼当時はもっと広かったように思えたし, 外川(荒川)まではもっともっと遠い道程と思っ ていたが. あらためて訪れてみて, 道幅は荷馬 車が行き交う程度の広さしかなかった. 外川ま では思ったよりも遠くはなかった. それにこの 梅の木もあの頃は目には入らなかった.
内川の船頭として育った貴は陸に上がってしまっ たとしても, かっての河岸場を通り行く事に心 が躊躇した. その血の騒ぎを静めるように, 貴 は辻の梅の木を平手で軽く叩きながら思案して いた. 辺り一面に田が続き, わずか二町ほど先 に内川のそれとわかる葦の繁みが田の中に曲が りくねって走っている.
荒川の流れは, 川越から千住の大橋辺りまでを 『外川』と土地の人々には呼ばれていた. それ というのも, 川越から新倉の荒川への合流地点 まで新河岸川が荒川と愛い添そう様に流れ下っ ており. それで荒川を外川, 新河岸川を内川と 呼んでいた. 荒川の大きな流れと違って, 内川 のそれは小川であり幾重にも曲がりくねってい る流れである.
江戸時代より陸の川越街道よりも, 荷の運搬に はこの内川の船運が繁栄した. 時代が明治に移っ てもその繁栄は続き, おそらくその辺りが最盛 期であったのかもしれない. 江戸が東京になり, 鉄道が東京—大宮—高崎と敷かれると船運の 荷は半分にがたっと減った. さらに東京—八王 子, 川越—国分寺, 川越—大宮と鉄道が敷か れ. それらが継ながると, 内川の水運は衰退し ていった. また, 過去に幾度となく大雨になる と外川, 内川をまたいている, 南畑, 宗岡, 新 倉と続いている広大な田畑が外川の出水によっ て冠水していたのであるが. 明治政府の治水事 業で, 外川, 内川の河川改修工事も水運の衰退 にわをかけた.
水運途絶を決定的にしたのはこの改修工事に伴 う, 昭和三年の通船禁止の県令ではあるが. 実 際には, 新河岸川に並行して走る東上鉄道(川越 —池袋)が大正三年に敷かれた事に拠る. 当時 鉄道関係者たちは船運を思って駅を河岸場近く に計画したらしいが, 船頭始め船運者たちの猛 反対にあい, 今でこそどの駅前も賑っているが, 当時は人里離れた所や, 林の中などに駅を設置 せざろうえなかった. 現在の上福岡市に有る, 三富や十四軒地域などからの荷を扱った福岡河 岸, 養老橋を渡った対岸の橋本屋の醤油専門積 み出しの古市場河岸が, 今でもひっそりと昔の 面影のまま佇んでいる. 昔その河岸場に出入り していた荷馬車が, 出来上がった新駅の上福岡 駅が取って代わり, 貨物車からの荷の積換作業 した敷地は, 現在もバス発着所として残ってい る.
貴の父は船頭の旗がしらとして鉄道敷地の反対 や, 内川の大改修工事には猛反対をした. この 船頭達と, 土地の工事人夫たちとの争いは今は もう歴史のなかに消えてしまっている. 父は息 子の貴によく語ったことがある「俺の小さい時 には親じき達が, よそ者の船頭たちの余りの無 法さに追い払う争いをしてな」それから内川に はよそ者の船頭は入ってこなくなった.
今度の争いも同じだが, もう駄目かもしれん「 何しろ荷が無くなっているからな」. 貴が十八 才の時である. それでも親じが寝込むまで親子 は船頭稼業を耐え忍んでいた. おやじの棹さば きは無言であったが, 怒りに満ちているように 貴には思えた. 自分の子供の頃はもっと笑顔の 棹使いであったのに. あっちこっちの河岸場の 回漕屋が廃業して行くのを, なかには河岸場そ のものが荒れるにまかせた廃場となってしまっ た場所もあるが. 往時の繁栄を知っているだけ によけいに親じは我慢が出来いのかもしれない と, あの親じの顔は涙を隠していた顔だと貴は 二十二歳になったときはじめて察した.
「貴さん !, 新倉の河岸で親父さんが倒れたら しい」福岡村の廻船問屋吉野屋の手代が, 一報 をもって駆込んできた. 丁度, 貴は廻船問屋吉 野屋の座敷に独り寝転んでいる時である. 「貴 さん !, 駅だ, 駅だよ !」, 背後からの手代の 言葉にギックとし, 顔は引きずり身体が硬くなっ た. 貴には三人の兄弟がいた. 彼が一番上で, 後の二人は東京え出て一緒には住んでいなかっ た. 駅へとリヤカーを引きながら, 彼はその出 ていった弟たちのことが不思議と胸に浮かんで は消えていた.
東上線の志木駅で, 菊池敦子は電車の発車まで の間ホームに降りてみた. 駅前の広場は閑散と しており眠っているような風景である. うっそ うと茂った木々の合間に瓦屋根が二~三軒見え るぐらいであり, 動いている物といったら, 小 鳥や犬, 猫ぐらいである. その小鳥のさえずり が敦子の耳に聞こえた. それに鶏の声も聞こえ ている, それらの光景の中で, かすかな内川の 匂に肌を触れて彼女は始めてほっと安堵した. 敦子にとってその心の和みは東京での七年間の 生活以来である. その匂の含んだ微風に揺れて いる目の前の小枝には, 咲き終わって新芽の葉 が出ている桜へ, 安堵している彼女の視線がく ぎずけになっていた.
駅え向かってくるハッピ姿の一団の騒々しさに, 乗客達が何ごとかと目を遣り始め, 敦子も一瞬 の白昼夢から覚め, 騒々しい方へと心が移った. 三上に丸が囲ってある印半纏は, 父によく連れ られて行かれた席でそういった印はんてんを見 ていたから, すぐ三上建材店のものだと敦子に も分かった.
なにかしら? 彼女も興味をもったが. 残念なが ら五~六人の男達が大事そうに運んでいる輪は, 一両前の車両へと吸い込まれていった. どうや ら輪の中は怪我人のようであった. 貴親子は敦 子も知っていたが, けが人がまさか貴の親とは 敦子も思いも及ばなかった.
敦子の父は, 生れた子が男でなかったことにがっ かりしていたと母に聞いた. 母はそれをいつも 気にしていたし, 敦子はそのせいか父に反発し て男のように父の仕事を手伝った. 敦子が跡を 継ぐ気になったとき, 何よりも母は喜んだ. 父 は, 女医菊池先生かと苦笑いしていたがその目 の奥に嬉しさを潤ませていた.
もっと東京で勉強していたかったが. 父がめっ きり弱くなったこと, 特にこの三年間, 自分が 帰っていないことに, 寂しく増ます気弱になっ てしまっていると, 母の手紙が敦子の元に届い ていた. 以前の敦子なら, 私に勉強が必要なこ とぐらい分かっているはずよ, 父も男でしょう 自分で乗り越えるわよ, とやり過すことができ たが. 今の敦子は医者としての自分に悩んでい た. 勉強は此所までといったことはなく, より 新しい知識えととどまることはなかったし. 実 際の病院の中では, 病よりも権威が優先し. 学 びの灯として東京え出てきてみたもののふと気 ずくと. 東京が欲望の生き物と化し全てを飲み 込みながら大きくなっていく. 敦子は自分もそ の得体の知れない生き物に飲み込まれてしまっ たと思い始めていた.
人間でありたい, が, 生きていくためにはこの 欲望の世界には入らなくてはならない. 人間が 群れの動物でなかったらと, 敦子は思ってみた. もし, 自分が単独で生きる類なら自分の生き方 ができるが, 現実には私は単独行動の虎や豹で はない, ライオンと同じ様に群集で生きる人間 なのである, でも, 汚いのは人間ばかりでない, 群れで生きる動物は殆ど汚いのじゃないのかし ら. 母からの手紙に敦子は少し東京を離れてみ ることにした.
誰もが東京へと憧れるのに今の私は違う. それ に東京と言う, この得体の知れない生物がさら に集まってくる全てを飲み込んで, より大きく 渦巻いていきそうな気がしてならなかった. 自 分はその渦に負けたみたい. 池袋駅で陽日をあ びながら, 帰郷する敦子の心はいっそう気落ち してしまっていた.
埼玉に入って始めて志木駅で敦子が触れた光景, 自然の大地のままで暮している人々. まるで時 間が止まっている様な生活, そんな風景画を見 ているみたい, この人生の生活—何時何分と言 う様なものでない生活, あれは確か大雨の後の 日の出来事だった—とかだと彼女は思った. と同時にこの電車や街道筋があの渦を, 霞を毎 日毎日運んできている. 私も東京に汚染された 人間だと自分を責めた.
上福岡駅に着いたら敦子は貴の父親を, 自分の 医院に連れて行き父に診てもらおうとした. 父 なら外科の心得もあるし, 反目していた船方と 父の仲直りの機会だと感じて一層父に診させる べきだと決心した. 五十歳を越えた貴の父親が 瞬時を忘れぬ痛みに, なすすべもなくただ必至 に堪えようとしている. 敦子は自分が医者であっ ても, これをどうすることも出来く, ただ痛み に負けないように言うだけである. 自分は一体 何をしてきたのだろうか?, 何時もの様に敦子 は無力を乗り越えるしかなかった.
「何で, 船で来なかったんだ !」
集まっていた吉野屋の手代達から, 一人離れて 黙し, 汽車の来るのを待ってい貴の最初の言葉 が三上印半纏への罵倒である.
「何だと! てめえの親父を連れてきてやったの に, 礼も言えねいのかよ!」
「ふざけるんじゃねえよ, 三上, てめえもかっ ては船頭の端くれだろうが. 船頭が電車に乗っ てどうすんだ, この馬鹿が!」
「何だと, この野郎! 貴様の親父が死ぬか生き るかの瀬戸際だろうが, 船に乗せたら死んちゃ うだろう. この馬鹿」
「おお, それで結構, 船頭がな船で死んだら本 望だ!」
「この野郎! てめえ自分の親を殺すきか, ふざ けやがって」
そうは言っても三上の手代は売られた喧嘩を買 う気にはなれなかった. リヤカーの荷台の布団 に親父を寝かせて引いていこうとする貴に, ま さか殴り掛る訳にはいかなかった. 貴は手伝い に来た人達を残し, リヤカーを一人で引いてい こうと, かたくなにその姿勢を変えなかった.
「先に医者に診てもらったら!」
黙ってリヤカーを引いて行く貴に, 敦子は気が 気でなかった.
「貴!」
手代たちに混じっていた吉野屋の隠居も声をか けたが貴は黙したままだった. 医者といっても この村には菊池医院しかなかった.
「貴! お嬢さんならいいだろう. だいいち, お 前の親父だろう」
貴は答えなかったが. 敦子はご隠居が自分にう なずくのを見ると, 貴を止め自分の着ているセ ーターを病人にかけて再び布団をかけ直した. 布団は煎餅布団である, それをみて敦子は何と も言えない気持になり, 風が入らないように回 りを叩き整えると, 貴に声を掛けた.
「冷やしては駄目よ, 暖めてやらないと, それ に風に当てないように. いいわね, 私, 家によっ てから行きますから」
貴の目の潤みを感じながら, 敦子は心の震いに 立ち向かうように言い切った.
貴の足は木野目の渡しえと自然に向いていた. その頃になると, 昼と違って空は一面寒々しい 気を帯び, 辺りに冷気が漂い始めていた. 小屋 を仕舞いかけていた渡し守の目に貴の姿が映っ た. 雀の一団が空のあっちこっちを覆い隠しな がら飛び回っている, 渡し守と貴はそのうるさ さに時折話を止ぎらせて, 空の中で一団が広がっ たり縮んだりしながら群舞しているのを, どち らも言葉なく眺めては茶碗酒を口に運んでいた.
「あんなに自由に振る舞えたら, 本当に気分が 良いだろうな」毎日暮れ霞の夕空に繰り返され 空の光景に, 渡し守は呟いていたが. 貴の酒は そんな生易しい酒ではなかった, 嫌味というか 憂さが心の底へと沈み込む酒に近かった. なに もかにも気にくわなかった. 「自分の心を殺し て事の大事に当たれ」か, 酒の代わりに貴は救 いを飲み込みたかった.
親父の病は酷くなる一方で, 熱の下がった今で は, 両腕がかすかにしか動かなくなり, 辛うじ て歩くことが出来るだけ助かったような感じで ある. そのころから, 貴はますます物言わなく なった. 呑みほした酒が喉を通り胃袋に入って カッアと熱く燃えている. 貴は更にグイグイと 煽った. 押し殺していた「全てが気に食わなく 思う心」が腹の内でメラメラと一緒に燃えてき ていた.
夕空の中は雲だけが浮かんで流れており, 暮霞 が一段と色濃く染まり始めていた. 気ずくと, 渡し守が小屋の残った後かたずけをあたふたと 酔いながらしており, やり切れない隙間風が貴 の熱くなっている腹に吹き込んできた.
船頭達の「鉄道(東上線)が敷かれたら船運は終 わりだ」の懸念は現実のものとなり, 鉄道の便 利さに船運は勝てなかった. それは徐々にといっ たものではなく, 荷駄の運賃が船荷賃と同じに なると, その日の予約の有った荷までが鉄道へ と流れてしまい, 廻船問屋は一日にしてガラン となり, 船頭達は噂以上の凄さに成す統べもな かった.
その日の貴は四千貫の塩を積んだ七十石平田舟 で上げ潮を待って花川戸を出た. 新倉河岸の荷 舟が荒川河口から新河岸川へ引く, 曳子から下 り船がなかったことを聞くと, 七十石平田舟を 一刻も早く吉野屋えと気が急いだ. 翌朝引又河 岸には, 上りの彼の舟しかなかった. 井下田屋 の手代らの塩を降ろしている作業にも元気がな く, 誰一人として話をするのが怖い気持に駆ら れていた.
「貴! これが最後の荷かもしれないぜ」
回漕店に集まっていた船頭仲間の声に, 貴もそ んな不安を感じていた.
「これからどうするんですか? 」
貴は聞いてみた.
「そうだな―, まあ船頭を止めるしかあるめえ. 荷が無いんだから, どうしょうもあるめえ」
「そうかと言って, 汽車をひっくりかえす訳に もゆくめえでえ」
貴は気に掛かることがザクリとえぐり出された 気がした. 井下田回漕屋に集まっていた船頭達 も何気なく言った言葉にハットした.
「貴! 早く帰ったほうが良い」
吉野屋回漕店の船頭かしら貴の父は血の気の多 い事で川沿いでは恐れられていた.
「しっかり捕まっていろよ」
貴を後ろに乗せると馬方は鞭を入れた. 馬上で 馬方の背をしっかり掴みながら貴は「船頭稼業 が終るなら, この引又河岸の様に静かに消えた ほうが良い. 間違っても, 争い事でお仕舞いに はしたくない」と揺れていた.
今では, 古市場の方から養老橋を渡って右手に 折れていくのが幹線道であるが, かっては, 左 手に折れて吉野屋と江戸屋の間の道幅が亀久保 や所沢えの幹線通りであった. 今日この辺りを 歩くと, 往時の面影を残したまま, 時間に取り 残されたように侘ずんでいる. 此所で貴親子の 死闘があったことなどが, まるで嘘に思えてく るような時間の過ぎるである.
東上鉄道を施設するさいにはその荷の運賃は向 こう五年の間は舟よりも高くする事に関係者の 間では約束事になっていた. その間に海運から 汽車運へ変革が大方の手打ちであったが. 実際 に汽車が通って半年も経つと, 約束は反故にさ れ同じ荷の運賃になった. しかも汽車のほうは, 荷を駅まで行き来する運賃まで含んでいた.
それまでは荷の河岸場までの行き来は馬方の配 慮であり, 舟運賃とは別個のものであった. つ まり鉄道のほうが, 早くしかも大量に一度に運 べて, その運賃が舟運より安いのである. 回船 問屋の寄り合い衆は東上鉄道の本社に掛け合い に行ったがらちがあかなく, 今朝になってとう とう鉄道のほうは実質の値下げをしてきた. 吉 野屋の主人も寄り合いで東京に掛け合いに行っ ており, 留守を守って吉報を待っていた船頭た ちに, この鉄道の一方的な行動は怒りを誘うも のである.
船頭頭の貴の父は午後になると, それまで押え に押えていた心を押え切れなくなり, 駅え押し かける決心を固めた. もっとも昼近くになると, 船頭らの不穏な空気を察して村の有力者や鉄道 関係者らが駅えと集まってきていたが. 村の街 並は家の戸締まりをし, 今度こそどちらとも無 事には済むまいと, 鉄道と船頭の争いを不安げ にひそひそと話していた.
川崎村の畑中を船頭頭を先頭に十五人の集団が 駅へと向かっている. 日は高く辺り一面の畑は 豊作の証のように, 菜や緑の葉が青々とふさっ ている. 馬上の馬方が貴に聞いた.
「どうする?」
「前に出してくれ! 」
馬方は集団の前方に塞ぐように出ると馬を止め た. 馬が恐ろしさにいな鳴き後退りしている.
「行ってくれ, 後はいいよ」
「しかし………」
手綱を抑えながら去りかねている馬方を, 貴は 巻き添えにしたくなかった. 鞍に取り付けてあっ たむしろ包みを取ると. その包み見せながら井 下田屋の旦那にこれを無断拝借したとお伝え願 います. 先頭の親父の姿が見えてきた.
「おお, 貴か. お前志木河岸にいたんじゃない か」
「急いで戻りました. 頭, 止めて下さいよ. お 願いします」
「そうか, それで飛ばしてきたのか. なあ, 貴 よ道理を通さないとな, 俺達船頭は新河岸舟運 を守ってきた故人たちに顔向けできなくなる. 死んでよ, 会いに行けなくもなる. 」
「頭! 」
貴は目が潤み, 後の声が出なかった.
「頭! 」
「駅の奴等に思い知らせなくちゃ. 約束を反故 にされたまま何も出来なかったでは, 俺達はお 仕舞いだぜ」と後ろのほうで気勢の声が上がっ た.
列の中には貴には顔見知りも馬方も混ざってい た.
「頭, 馬勢は駅にも出入り出来るんだ. 巻き込 む事は無いだろう」
「頭!」
貴は頭に頼んだ, 駅へと向かう集団の輪が止まっ た事によって, 噂を聞きつけて加勢に駈け参じ た人々が一団に追いつき, その輪が頭と貴のや りとりを息を飲み込んで見守った.
「若, あとの事は若にお願いします. わしらは 右から左へ『はい』そうですかとは, 頭と同じ 受ける事は出来ない」
輪の中から声が出た.
「貴, 聞いたか. 道を開けるんだ」
貴は死のう此処で死のう, そう決心すると覚 悟ができた. 手に持っていた包みを開くと井 下田屋から拝借してきた日本刀を取り出して 構えた.
「そうか, じゃ, お前をまたいでゆくぜ」
「頭! そいつは, 頭! 」
集団の輪から震え声がかけられた.
船頭の頭である中島喜三郎は, 我が子の貴を 無言で見つめた.
「死ぬきか」
頭と言うより, 貴には親父の響きを感じてい た. 「いずれな, 俺も付き合う. 後でな」と 親父の心も聴いた気がした. と同時に丸太棒 が唸って, 自分がどうやってどけたか何も知 らなかった. が, 棒に向かった刀は棒に持っ ていかれ, 貴は素手にされた.
喜三郎は青ざめ暫く我が子を無言で睨んだ. 貴がそれでも退けないのを見届けると, 喜三 郎は身を引き裂くように丸太棒を息子の貴へ 振り向けた.
死ねる. 貴は目を瞑り逃げたい心を振り払っ て, 一撃を待った.
「頭………」
目を開いた貴には, 親父が他の船頭達に囲ま れて元きた路の方へ引きずられている姿であ る. 貴は引き下がっていく輪に膝まつき頭を あげる事ができなかった. 涙が地面にぽとぽ と落ち, 死ねなかった自分をどうしてよいか も解からなかった. 「道理が不道理に負けた のだ, 不道理がまかり通ったのだ」どうした らいい. どうしたらいいのだ. お辞儀をした まま, 地面を見つめたまま貴は声を出して泣 き出していた.
この福岡河岸での一件は, 福岡河岸に負けじ と立った上流の川越五河岸にも伝わり彼らの 矛を収めさせる事になる. ここに, 事の次第 はどうあれ, 鉄道の揺るぎない地力がついた. その後鉄道に荷が全て移ったあと. それでも ぽつりぽつりある荷 —ほとんどは, 瀬戸物 の壊れたものや, ガラクタ物— を貴親子始 め残った船頭達は運んだ.
家の庭に, 往診用の自転車が置いてあるのを. 酔いの目の貴は見つけ, 踵を再びもと来た道 えと返そうとして, 何処へ行くか迷っていた.
「何処え行くのかえ? 」
背中におふくろの声がした.
「お嬢さんが看に来なさっているのだ挨拶せ んかい」
貴はおふくろのかわりに焚き技を抱えると, 自分の家へ入るのに滑稽な程おじぎをして土 間へ行った. 囲炉裏の回りには串刺しにされ ている鮠が程よく焦げており, 部屋中良い匂 である. その囲炉裏の有る板の間にござが引 いてあり敦子が座っている, 奥の畳みの部屋 に親父が布団から上半身を起こしていた.
「また,呑んでいるのか. 御飯を食べたら」
丁度夕飼の支度どきである. おふくろと敦子 の会話を耳に入れながら, 一人貴は御飯を口 には込んでいた.
「それはお嬢さんので, お前のじゃないぞ」
奥から親父の世話をしていたおふくろの声が 飛んで来た. 囲炉裏から手を引っ込め, 貴は 自分のお膳を片付けた.
「貴, お茶を入れんかい」
おふくろの声は遠慮なく, 土間へと立った貴 に強要している. いつもは食事の後は寝てし まう彼ではあるが, 敦子がいる以上, それも 出来なく女どうしの話をおとぎ話のように耳 に心地よくいれ, かたわらのタンスに背をよ りかけてうたたねし始めた. 酔いが貴を一気 に夢の世界へと連れて行った.
敦子は自分が幼い時から貴に守られていると, そう思わずにはいられなかった. 今晩も貴は 自分を送るはめになってしまっている. 敦子 が小学生の時, 貴にいじめられた事があった. それは彼女にとって忘れられない思い出の一 つでもあり, 今でも, そのときの傷跡が, 半 袖になるたび腕から顔を出しいる.
宿題の作文に敦子は, 河川が改修されて皆が 洪水に会わないようになれば良い, 早く汽車 が通るようになれば良い, といった様な事を 書いて先生に誉められた事があった. それか ら二日後に帰り道で彼女達は, 貴らに囲まれ てあっという間に敦子は貴に殴り倒され, 大 人が走り寄って来ても貴な乱暴は止まなかっ た.
敦子は自分の父にも, 「お前が悪い』と怒ら れて家でも又大声を上げて再び泣きだした. 泣きじゃくる自分い父は更に怒った「他人の 事を察しないお前が悪いと」きつく叱られ, 船頭の一軒一軒に謝りに行ってくると父の怒 りは収まりそうも無かった. 父がそのため着 替えている時, 貴の親が謝りに来た. 親の手 招きで玄関に入ってきた貴を見て, 泣いてい た敦子はビックリした. 顔が真ん丸に青く腫 れあがっているのである.
「お嬢さん, こいつに良く言い聞かせました からもう大丈夫ですよ」
それでも泣かずに唇を噛んでいる貴に敦子は 驚いた.
「貴! これから毎日お嬢さんを家まで送るん だぞ」
父がせめて貴を看るからといって帰るのを止 めようとしたが, それではといって息子を残 して貴の親は帰って行った. 父の治療を敦子 は机に隠れながら覗き見していた. 父が何か 言うたびに「痛くないわい, 痛くないわい」 と言う貴の声が聞こえた. 貴を送ってその夜 遅く父は酔って帰ってきたが. 「やはり男の 子ではなくては, 男の子ではなくては」と母 を一晩中困らせていたと敦子は母から聞いた.
話もとぎれ貴と歩きながら, 敦子はそんな事 を思い出しながら歩いていた.
The second
今にも泣きそうな空の模様であり, 視界に入る ものはどれもこれも鈍い光沢を見せて, 直ぐに でも降ってきそうな気配の風景である. 空の西 の方から黒い雲が徐々に広がってきており, そ んな中, 菊池親子連れは内川に沿っている土手 の道を帰宅をしていた.
雨前の風が吹き始めてきても, 父の源右衛門は その歩みを速めようとはしなかった. 敦子もそ れに従いざろうえなかった. 川の流れは以前よ りも速くなっており淀みがなくなっていた. 広 がっている田の向こうに盛土した外川の堤が眺 められた.
源右衛門は辺りの景色を考え事をする様にゆっ くりと歩いている, 歩みが遅いのはそのせいで ある. 粘っこい風が内川の葦を騒々させており, 上空は完全に黒雲に覆われてしまっていた. そ れでも, なをかつ源右衛門のゆっくりとした歩 きは変わろうとはしなかった.
内川の葦の繁みを一段と騒々させながら平田舟 が一隻進んでいた. その葦に見え隠れする中で 源右衛門は立ち止まって舟が通り行くのをじいっ と見ていた.
突然に「わ―い」と子供達の元気な囃し声に敦 子は振り返ってみると, 田の畔道を学校帰りら しい五~六人の子供達が土手へと向かって走っ てくる. 土手に登り着くと, 子供達はランドセ ルや手にぶら下げていたものを道に置き, 平田 舟にむかって石を競って投げ始めだしたのであ る. どれも舟までは届かず水面にポッチャ・ポッ チャと力尽きて落ちている. 敦子はビックリし たが, 父が烈火のごとく怒り出して子供達のほ うへと走っていった.
「わー!」と子供達は, 走ってきた道の方へと バラバラに戻り逃げ出した. 相変わらず舟は無 表情に水のうえを滑っている. 「貴さん」敦子 は胸が痛くなった. かって貴を餓鬼大将に仰い で遊んでいた人達も, 今では貴を不思議と敬遠 している. 小さい時から頭が上がらなかったせ いでもあろう, 貴もそれを知っているため顔を 会わせるのを自分から避けているみたいである.
「貴さん」敦子は, 小糖雨の降りだしてきた中 で人の世の様に胸は更に痛んだ.
「学校へ行ってくる! 」
戻って来た父の怒りは治りそうもなかった.
「新しく来た人達の子供達よ, 地元の子ではな いのだから」
「地元の子で, あんな事したら, 親たちが黙っ ていないわよ」
敦子が言ってみても. 父には馬耳東風であった.
「よそもんがめっきりと増えてきたわい, 困っ たもんだ」
「お父さん!. 子供の事に親が口出してと, よ そ様に笑われますよ」
「笑われてもよい. とにかく学校はいったい何 を教えているのか」
源右衛門は, 自転車に乗り敦子を置いたまま学 校へ向かいだした.
敦子は貴がなぜ船頭を止めないのか, その理由 が分からずにいたし, その事が何時も自分の心 の片隅に引っ掛かっていた. 霧雨は敦子の瞼に 付着するほどの強さとなってきている.
「お父さん! 」
敦子が呼んでも源右衛門は振り返えりはしない. 敦子は仕方なく家に一人向かった.
夏の日差が強く大地を照らしている. 土の道は カラカラに堅くひびが走っており, 午後の休み 時でも, 汽車が着くと肌を黒く焼いた強者たち が貨物車から荷の積み込み降ろしで駅の側はあっ という間に戦場となった. 馬も汗で肌を黒く濡 らしている. この作業が遅れると, 客車の人々 も発車までその分待たされるのである. 自然に 罵声や掛け声が辺りに大声となって行く. 特に 上りの汽車のときには全てが喧嘩腰で進むので ある.
汗すらも抜くう事ができない彼らの唯一の楽し みは, 酒を呑む事を除いて敦子先生に看てもら うことの自慢話である. 彼らは一寸したかすり 傷でも菊池医院へと走ったし, 彼女は彼らの人 気の的であった. 自分の子供の怪我の時など, 我先にこれ身よがしに大手を振る舞っては自分 の女房に怒鳴られていた.
—蝉' し' ぐ' れ' 夏' の' 日' 暮' の' 夕' 立' か'—そのうるささが村の家々を襲い, ひび割れの入った道という道の上を村人たちが 行き来している. 鉄道が施かられてからは村に 活動的なうねりが出てきた. 若者達が東京へと 働きに出ていくし, 畑仕事に残った人々も畑に 精を出し始めた. 作っても作っても東京へと収 穫物が吸い込まれ, 時には自分たちの食べる物 さえ出荷しなければならないほどである.
山林が潰され新しい人達が住み始めだし村の人 口が目立って増えてきていた. 以前よりも収入 が増えた事が村を変え始めていた. 言葉も変わっ た. 今までの『東京へ下るが<東京へ上る>』 と話すようになったのがその代表であるが. 日 常生活が時計によって動き, はっきりと人が秒 分に支配され始めてきた. せちが無くなったと いえばそうであるが, 汽車が定刻より少しでも 遅れる様な事にでもなれば, 駅長え怒る人達が 出てきていた. が, それよりもこれよりも生活 の向上や便利さに村人が夢中になっていた.
鉄道と同時に行き渡った, 電灯の明るさが新し い時の知らせを告げているのだと, 文明の物質 を追い始めだしている. 若者のエネルギーに老 いの精神土壌は片隅に追いやられ, より豊かさ をもとめて東京へと, また, 自己の中へ他人の 言葉を聞かなくなった村が走り出している. こ の, 人の川の流れを誰が止めえようか! この流 れの行き先は, あるいは危険だと察して言うこ とが出来たとしても. 社会は走り出した流れを 止める事は, 例え王様であろうともそれは出来 ない.
何万匹という鼠の暴走の行き先が海へと分かっ ている走りであっても, その走りから逃れる事 は一匹の鼠すら出来ない. 生物の上に流れてい る, この自然の原理原則は, 人間も又その一方 を形造っている動物界の一員であり, 天空の宇 宙から我々人間を観察すれば, そこにその答え は自ら生れよう. 我々の持っている理性と知性 がこの原理が何であるかと追及している, その 科学から生じた文明を人々は饗宴し, その哲学 から生れた思想を生きるバックボーンとし, 人 間はこれからも生きていく.
原住民が言った『神が我々に生きる喜びと神え の感謝のため, 年に二~三回の祭りを行なうよ うに労働を教えた. 我々はそれ以上の労働をす る必要があるのか? 』この他に任せに信じ切っ た(生まれ立ての)卵のような言葉が, 膨大な 量の文明・文化のなかに埋れてしまっている. 宇宙の諸現象の観測で, 人間は一つの心理を掴 んだ「始めが有れば終りが有ると」なら人間群 の終焉は何時だろう? その時こそ人も又他の物 と同じく, 滅び行く物の理で美化されるに違い ない.
菊池医院も他と同じ様に前よりも忙しくなった. 珍しく女医であり. 又, 美人である. そのせい でもなかろうが, 父の源右衛門は患者が増えた 事をそうとしか取らなかった. 今までの自分の 経験の治療よりも. 学問から得た新しい治療方 法や, 新しい薬をこの娘は使いすぎると源右衛 門は苦々しく思っていた. その新しさがお客を 次から次えと呼んでいるという事実を源右衛門 は思いたくなかった.
いきおい一日の終ったあとの夕食時に, 激しい 意見の食い違いからの喧嘩が待っていた. そん な中で如何してもやり場が無くなった時に, 敦 子はいつも貴の父の往診に出た. 自分自身それ がなぜなのか彼女にも分からなかった. 熱風の 中の蝉しぐれが消えて, 涼風が立ち込め始め日 暮らしがかすかに聞こえる様になった季に.
「私はお父さんの看護婦ではありません! 私だっ て医者なのですから! 」
そう宣言すると敦子は看護婦を新しく雇い入れ た.
「俺を追い出すのか!」
父の言葉を彼女は意に介さなかった. そんな日 々の中, 珍しく村長が父に会いに訪れた. 『と にかく校医を娘に譲れと』来た, 数日前からの 娘との喧嘩が喧嘩だけに源右衛門は真っ赤になっ て怒った.
「どいつもこいつも, 俺を老人扱いにしゃっがっ て! 」
が, 村長は平然とし. 「とにかくこれが, 大方 村の人々の意見であると」父の怒りの納まりを 待っている. 父が怒りのまま席を立って部屋を 出で行くと母がその後を追った. さすがに敦子 も心配になり席を立とうとすると, 村長は敦子 の腕を掴んで首を左右に振った.
「お母さんに任しておいたほうが, 二人にして おいたほうが良い」
言いながら敦子をもとの席に座らせた.
「このことは, 二か月前程から貴方のお母さん の耳に入れておきましたし, お父さんのほうに も入っていたはずです」
敦子はそういうやり取りがあったなど, この場 で始めて聴く話である.
「源右衛門が ………」
父を呼び捨てにして更に村長は続けた.
「あまりにも未練がましいので. 今夜という今 夜は直談判に来たんですわ」
ここまで言って村長は口をつぐんだ. 「確かに 父母の二人にしておいたほうが良い, 自分は関 わらないほうが良い」と敦子もうなずいてみた ものの気にはなった.
「ところで, 貴方に頼みが有るんです」
お茶を呑みながら暫く所在なげに居た村長が敦 子の方え向き直った.
「この村や人々のため, 村長としてこれからも 働くつもりでいます. そのためにもこれからは, 貴方に一肌も二肌も脱いてもらわなければ」
そう言って村長は敦子に深々と頭を下げた. 自 分よりは年長の村長が, その人が年重もいかな い自分などに頭を下げている. 自分の父母への 想いよりも. やはり「この村で立派な医院に・ 医者になるのだ. そういう自分の心は誤りでは なかった」と新ためて敦子は自信を持った.
若き日の源右衛門が情熱を傾けた「この村の外 川による出水を無くしたい, それに鉄道を敷き たい」それらは彼の晩年近くになって実現した. どちらも船運に関係している事であったが, 村 の多くの賛同を得た. 舟にしたところで川が荒 れてはどうしょうもなかったのであるが. 源右 衛門の情熱は共存共栄であった. 河川が改修さ れれば, 舟は出水に関係なく運航できるし, 鉄 道が通っても船運がなくなるとは思ってもいな かった. 鉄道と舟それに街道これらの三位一体 が相合して行くと.
計画が実現されていくと地元の手を離れ, 事が 成ってみれば, 鉄道と河川改修が手を組んだみ たいになり舟は追い出された. 鉄道に荷は奪わ れ, 河川改修に舟の運航は止められてしまった のである. 「騙された! 」船頭始め船運業者の 怒りも無理もない. 彼らの怒りは爆発する事な く恨みとなって心の底に沈んで行った. その思 いは源右衛門にしても同じであったのかもしれ ない. 彼は苦痛から逃れる如く, 娘を東京へ出 す事で(地元におかないことで)少しは心を軽く したが.
「人の世も, 自分の人生もままならないもので ある」俺に出来た事は娘に, この土地のしがら みからできるだけ離してやることぐらいか, こ れが, 長年の結果手にした人生の答えかと思う と源右衛門は我が身を自嘲した. その自嘲の結 果が, 戻ってきた娘は自由人となって, 俺を苦 しめている. 因果応報にしては, いやいや, 俺 が背負う人生なのだ. あーあ! 俺に男の子がい たら, 源右衛門は自分の生き先を見失っていた.
「此の頃お父さん少し変なのよ」
棟続きの診察所から昼食に戻ってきた敦子に母 が言葉を添えた.
「変て! どういう意味よ? 私には変わらないと 思うけど」
「何だか急に優しくなったのよ」
敦子は母と御飯を食べながら, 又, 父がいない のに気づいた.
「良いんじゃない. だって今迄, わがまま仕放 だいだったもの, お母さんもそれで苦労したで しょう」
「それは良いけど, あんまり急に優しくされたっ てねえ, 何だかこのまま行ったら, お父さん, 生気を無くす様な気がしてねえ」
最後の母の真剣な言葉に. 「そうねえ」と敦子 は相槌をうつしかなかった.
「男って, こうなると駄目ねえ」
敦子はそう言いながら心には別の事「無言の立 ち居振る舞いの貴の姿」を浮かべていた. 敦子 の思い「立派な医院へと立派な医者にと」は入 院設備の整った医院にしなければと歩き出した. 鉄道が通った事で, 村の人々も東京の大きな病 院に診てもらいに行く事が出来る様になった. だからと言って, この村に医者がいら無いとい う事でもないと, 敦子はむしろだからこそ此処 にも設備の整った医院が必要であると決心は堅 かった.
その自分の人生の完成のためにも, 東京から帰っ てきてから何時も感じている, 心のわだかまり を取り払わなければと思う様になった. 敦子が その頂点に立っている, 貴の父を東京に連れて いき医者に診せなければならない. そうしなけ れば自分をよそ者にしている彼らには入ってい けない. それが出来なければ大きくした医院も 意味もないと, 彼女は自分に誓った.
自分の人生を体当りさせれば「貴さんは分かっ てくれるはず」と敦子は診察が終ると, 貴の家 へと歩き出した. 日が沈んだ道を, ひびの入っ た土の道を思いに駆られて一人歩く敦子の身に, 周囲の樹の繁りの内から日暮しの泣き声がまる で悲しく聞こえた. この道を何度, 私は行き来 したのであろうか?
あの駅の出来事以来, 最初は蛇に睨まれた蛙の 様だった. 辺りが見えてきてからは自分の意志 で, 深くは入ろうとすると, 何時も貴に跳ね返 された. 敦子の心がめくりめくっていると, 一 瞬心が吸いこまれ「父は, 貴さんに菊地医院を の後を継がせたかったのじゃないかしら? 」, 遊んでいても私と成績を競っていたのだから, 憑物はすぐに落ち, 立ち止まった敦子はすぐに 歩き出した.
敦子の足は貴の家が見えるところまで進んでい た. 深い竹薮が道を隠しその向こうに家の屋根 と白壁が夕暮れにひっそりと照りかえっていた. 道を覆っている竹薮の暗さの中から, 家の異変 に彼女はようやく気付いた. 何時も見る夕飼げ の煙は昇っていず, 土間に通じる戸口は開け離 れたままになってたし. 火の気が感じられず, 家に向かって近付けば近付くほど, 人が何か息 を殺しているような, 常とは違った様子に敦子 の身体は緊張した. 今は駅に出入りしている馬 方が敦子を見つけて彼女の歩みを止めた.
裏の竹薮で貴の父である喜三郎が首を括った事 や, 貴が見つけた時は既に遅かった事など. 馬 方の話に敦子は唖然とした. 何処をどう歩いて きたのか, 右手に大杉神社が有った. 真っ赤な 天狗の面が御神体の航行安全の水神であり. 同 社拝殿に奉納された額には, 福岡河岸関係の船 頭他, 新河岸川(内川)・荒川(外川)本流・利根 川・綾瀬川・江戸川・絹川の船頭九十六人の名 前が記入され捧げられていた. 敦子は貴の姿を そこに認めた. 拝殿の前の地面に貴は腰を下ろ していた.
「貴さん! 」
敦子は貴に怒りを覚えながら叫んだ! が貴は振 り返ろうとはせず, そのまま地面に座ったまま でいた. 敦子は其れにも腹が立ってきた.
「何か言ったらどうなのよ! 」
貴は黙したままだった. 敦子は貴のほほを殴っ た. 一回, 又一回と, 手のひらが熱く感じたが 敦子はそのまま殴った. 貴は敦子の為すままに していた. 感情の爆発して疲れたのかふらふら とよろけ, そのまま貴を見やって敦子は鳥肌が 立つ様な恐怖を感じた. 貴の面影が凄じい人生 への恨みと憎しみの面影に一変していたのであ る. いや, 敦子がそう感じたのである. 彼女は 弾き飛ばされ, その憎悪の手が自分の首に伸び. 殺される! 敦子は一瞬に感じた. 貴の伸びた手 が首をぐいぐい締め付けてくるのを感じた. 殺 される! !
「貴. やっぱり此処にに居たのか」
吉野屋の隠居の声がし. と同時にその堤灯の明 りに照らされた貴の姿は元に戻っていた.
「母親のところに早く帰ってやれよ」
片方の手に持っていた蝋燭に堤灯の火を移して 貴に渡し. ご隠居は震え立ち竦んでいる敦子の 衣服の汚れを払いだした.
「ご隠居! ………有り難う御 座いました」
敦子を促し, 大杉神社を出ようとしている二人 に, 貴が始めて口を割った.
「なーに, いいっていう事よ」
隠居は貴を見返し, 返事をしながら敦子ととも に出ていった.
世が世なら貴の父の葬儀は盛大なものになるの であろうが. 船運が寂れてしまった今, それは 惨めというほどひっそりしたものである. その うえ貴は鉄道に関わっている人や村の有力者の 焼香をことごとく断わった. それでも他の川沿 えのかっての船頭たちが集まってくれた.
源右衛門は遠く焼場の煙突が見える岡に腰を下 ろし, 眼下に田畑の中に立ち上っている煙をじ いっと見ていた. 田畑には草むしりに余念のな い人達が点々と動いている. 煙突から立ち上っ ている黒い煙は, 空に広がりやがて薄くなって 消えていった. 福岡河岸船頭頭である喜三郎は 五十八年の歳月をこの地上から消えた.
それから, 一ヶ月もたたない昼頃であるが, 御 飯を食べている敦子と母の前で突然笑い出した 父源右衛門は, そのまま狂い出し源右衛門とそ の世話のため母が小諸の里えと福岡村を後にし たのは, 未だ中島喜三郎が土に帰すまえである.
滅び行く物の美しさには何人とも勝てはしない. 敦子の人生の目的をもってしても, 延々と三百 年も続いた舟運とその歴史を乗り越えることは 出来なかった. 世間的なはた目には, 新築の成っ た医院は敦子の素晴らしさを映していたが, 彼 女自身の心は疲れきり, その身をずたずたにさ れていた. 新しい医院には父母もいなく, その 上, 彼女は貴の凄じい心の渦を見てしまった.
その敦子を唯一救ったのは, この医院で生来る 赤ん坊の産声であった. 敦子は産まれ出た赤ん 坊に接するたび, 何時も生命へ驚きと感動に襲 われた. そのうち敦子は滅び行く物よりも生い ずる物の真実の大きさを知った.
この事を敦子は貴にも知って貰いたかった. 彼 女の心の内には, あの人が仮面を剥いだ時に. この村にとんでもない事が起きるのではないの かと, 恐怖の思いがこびりつき, 生まれ出る生 命の美しさを, 貴には切実に知ってほしいと思っ た. が, 彼の親父が亡くなってからは, 敦子は 貴との関係はなくなってしまった.
無理に会おうとしても貴が避けた. 彼女は自分 一人が人生の驚きや感動を独り占めにしていい とは感じていなかった. 貴という最もそれが必 要な人がいるのだが. 敦子には貴にそれをぶつ けるだけの力が, もう湧いてはこなかった.
貴がときおり汽車に乗っていると, そんな噂を 敦子の耳にも入った. 何処へ行くのにも舟を漕 いた貴が, 汽車を利用したとは, 日にちが過ぎ るうち敦子は世間が諭っているような, 彼の心 境の変化ではないと感じた. 彼の心の奥底に何 があるのか, おそらく誰も知るまいと敦子は思っ た, 同時に, 村への恐ろしい災いの前兆かもと 敦子は震えた.
父がこの医院を建てたようなものだわ, それな のにまるで自分が建てたように思い込んでいて, 心境の変化は敦子の余裕なのかもしれない. 敦 子がもたらした, 医院で赤ん坊を生む事は. 彼 女が東京で学んでいた当時, その病院で実旋さ れていたものである, それを真似ただけである.
東京で流行っている「病院で赤ん坊を生む」事 が. おらが村でも出来るのだ! とばかり. わざ わざ嫁いだ娘を里帰りさせ, 敦子の医院に入れ る騒ぎになるほど近在所では評判になった.
敦子の専門は内科である, その知識が助産婦を 心服させ, それが口伝てに村々の母親へと信頼 が広まったらしい. 敦子は何もかも忘れるよう に治療に入れ込む日々を送るようになった. 東 京では挫折した, 人と治療との関係を「医療に 立った治療でなく, 患者に立った治療が」を敦 子は目指していた.
今日も夕暮れ迫る内川の上空を雀の一団が乱舞 している, 延々と続く南畑の田に野火の煙が立 昇るようになった. 村々の家をも包みこんでい る薄紫の霞みが, 暮ががった景色に一層人恋し さを漂わせている. 内川に舟の面影はなく水の 面が暗闇の中, 鈍く光り流れている. 草がうっ そうと繁っている河岸場には人影もなく, かっ ての繁栄の跡地を今, 夕闇に隠そうとしている.
村に新しく住み始めた人々にとっては内川の事 など関わりはなく, 夜の風が内川に茂る葦を鳴 らし, その音色がもの悲しく泣ける様に吹いて いた. その泣ける音が夜風に乗って残暑酷しい 家々を街を走り, 開けはなれた窓から家の内に 侵入し部屋部屋を巡ってやがて外えと抜けて行 く.
真昼に太陽のギラギラと燃えた熱は夜になって 正体を現わし. 寝苦しい夜がまるで人の世の罪 を償いさせているが如くである. 敦子の開けは なれてある寝室の窓から内川を渡った夜風が侵 入していた. 窓から入り込んだ風は, 箪笥の上 に並んだ人形に当たっている. 内川の泣ける音 に接した, 患者から贈られた顔の入れられてい ない人形たちが, 寝ている敦子の上でざわめき 出した.
「ここは何処かしら? 」見渡すかぎり赤土と砂 と岩だらけの地である. 敦子はそれでも地平線 のかなたへと歩き出した. 喉が乾き切り息が出 来なくなりそうである, 意識が朦朧としながら 意志だけは地平線のかなたにと目指していた. どんなに歩いても地平線のかなたは更に先にあっ た.
「もうだめ! 」喉の乾きでとうとう敦子は胸が つっかへ呼吸ができなくなり, ぴんと張った意 志が切れ倒れた. 鴬やおびただしい様々な小鳥 のさえずりのなか敦子は不思議に意識を戻した. 敦子の心は今までとは違って満ち足りた穏やか な休息に変わっていた. 色とりどりの花が咲乱 れ, 手入れのゆきとどいた木立のなかを敦子は 目に入った家の方へと歩き出した.
「済みません, 幸せの国はどっちなのでしょう か? 」
敦子は尋ねた.
「その道を歩いていけば有りますよ」
夜風にカタカタと音を立てていた, 顔の入って いない人形の一人が敦子に答えた. 今度は, ソ クラテスの家・アリストテレスの家・アルキメ デスの家と看板が下がっている家のまえに出た.
「あの………人の幸せを掴む のには何処へ行けば良いのでしょうか? 」
庭で雑談している彼らにむかって敦子はここで も尋ねた. ソクラテスが行くべき道を指差し,
「今日はこれで二度目である」
と語った.
「二度目! 最初の人は誰なのでしょう? 」
敦子は訊ねてみた.
「中島貴と言ったな, 『恨みを忘れる場所』を 知らないかとな尋ねてきた. どの道同じ道さ」
ソクラテスは言い終るなり再び仲間と談話し始 めた. 敦子は大きな森にさしかかった, 道はそ の中へと通じている. 密度の濃い緊張した空気 である. 中を歩いていくうち, 小鳥のさえずり の中, 下のほうで母の呼ぶ声がした. 敦子は迷っ た, 先へ進もうか? 戻ろうか? ずっと先に貴ら しい後ろ姿を敦子は見た. 母の三度目の声に敦 子の気が行くと同時に敦子の身体が飛んだ.
「先生! 先生! 」
敦子は意識に看護婦たちの声を聞いた. 朦朧と した中で自分を囲んでいる彼女達が見える. 彼 女らは目を開けた敦子をみて一斉に泣き出した.
「どうしたのよ, あなた達? 」
「大丈夫ですか, 先生? 」
「ええ, だからどうしたのよ? 」
敦子は寝室で呻声をあげ, 苦しそうに身体を暴 れさしていた. その事を全然知っていなかった. 離れの奥くから人とは思えない奇妙な呻声がし, バタバタ・ドスンドスンと音が続き先生に何か あったのかと彼女達が飛んできたのである.
人形 —大半が背丈二十センチ程の結城や絣を 着た大人と女人, 五センチぐらいの遊ぶ仕草の 幼子— のノッペラボウが, 雲の切れ間から差 し込んだ月光に照らされ, 部屋に繰り広げられ ている光景を静視している.
「そう」
敦子は完全に意識が戻り, それから深く吐息し た.
「大丈夫よ, 夢を見ていたのね」
再び雲に月が隠され. と, 窓から吹き込む風向 きが変化した. 途端に人形達の面影が何時もの 状態に戻った. コチ・コチ・コチと時計は午前 二時を十分ほど過ぎていた.
「ねえ, 皆ここで雑魚寝しようか」
敦子の言葉に, 彼女らはキャーキャー言いなが ら少ない毛布を奪い始めた. 敦子は窓から空を 仰いだ, 月を隠す雲が次から次と流れている, 吹き込んでくる風が心地よく, 風は今までとは 逆に内川の方えと去っていった.
昼近くになって, 内川を船頭四人の必至の棹さ ばきの平田舟一艘が流れを登っている. かって の飛切(今日下って今日上がってくる舟の呼び 名)方式である. 舟の中に吉野屋の隠居が横た わって貴を覗いている. 川添いの道を行く人が 現われては, 船頭たちの掛け声に何事かと注目 しながら去っていく. 花の木の渡し守りが泣き ながら貴を見送った.
「貴! 何とか言ってくれ! 何か言えよ!, 見ろ もうお前の村なんだぞ. 貴!」
隠居の目は涙も枯れ血走り叫ぶ声はダミ声になっ ていた. 学校では運動会が午後の部には入った 知らせの花火が白雲空にこだました.
「貴! 何とか言えよ! 」
船頭の手のひらには豆ができ潰れ, 彼らは棹を 握った手を自分で開くことが出来なくなってい た.
貴の母親が仏壇のまえに放心したよう黙込んで 座っており, その脇で, 吉野屋の御隠居が声に もならないダミ声でうなっている. 安否を気遣っ て襖を開る者は, 仏壇の蝋燭の灯に照されたそ の光景をみて『地獄』を覗き込んだように思え, 身震いしながら通夜の席えと戻った. 敦子が帰 ろうとすると, 身ごもった娘の母親が囁くよう に相談してきた.
「うちの娘を先生のところえ入院させたいんで すが? 」
「何か差し障りでも? 」
「ここや, 亡くなった貴さんの手前ね, おとう ちゃんが何というか? 」
「お母さん! 娘さんの赤ちゃんには, ここも, 貴さんも内川も関係ないでしょう! 」
「うちに入院させてやってください, 出来るか ぎりのことはします, お願いします」
「娘さんがそう言うなら, お母さん, 娘さんの 願いをかなえてやってください. 私からもお願 いします」
敦子の心はほとばしり, 慌ただしく通夜の席に もどる母親に頭を下げた.
通夜の席から洩れてくる船頭達の千変万化して いる音韻が, やがて家を後に歩き出した敦子を 追い抜き, 畑や田の上をすぎ, 内川の上で風に なびく葦の吹く悲しい音にゆっくりと同化して いった.
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The third
大地へ注ぐ夏の日差の眩しさだけは今も昔も変 りなく. 蝉しぐれや, 深い青空の日光のもと花 から花えとヒラヒラ舞っている蝶々等, それら が昔よりは少なくなっている. 川越近辺には蝉 しぐれなど殆ど無くなってしまった. 夏がこう である以上, 季節の移り変わりなど, その面影 も薄く, 涼しさの取り方も今と昔では完全に違っ てしまった. 鳴く虫の音に季節を感じるなど, もう少し時代が経てば変人扱いにされる様にな るだろう.
週末になると新河岸川添えにめっきりと釣り人 が多くなった. 堤の土止めのコンクリートに腰 をおろし釣糸を垂れている幾本もの竿を見てい ると, この川に舟が通っていたなど遠い昔話の ような気がする. 河岸場跡地に立てば, 強の者 達の罵声が飛び交い, 鞭を入れられて汗を出し ている馬のいななく声がこの耳に錯覚してくる.
お盆も過ぎる頃, 墓を掃除に来ている一家がい る. 兄弟とその子供たちで総勢九~十人の集ま りである. 昼過ぎに, さっぱりとした墓地に線 香の煙が昇り, 読経があげらた. 高校に通って いる娘の番に来ると.
「お前は特に御祖母ちゃんに可愛がられたのだ から良くお祈りをするのよ」
母が脇から言い聞かせた. 御祈りも済んで墓地 のなか車の方へ歩いて行く家族の上に, 黒雲が 出てき空を覆い隠し始め出してきている.
「ちょっと行ってくる! 」
さっきの娘が車から墓のほうへと走った. 墓の 前に着くと, 彼女は胸から —母が東京にいる 息子の所に行ったその後の中島家の消息を調べ たレポート— 折畳んだ紙を取りだし読もうと した.
「お姉ちゃんーー! 」
「敦子ーー! 」
甥っ子や母の呼ぶ声がし,
「御祖母ちゃんごめん」
そう言うなり. 紙を置くと, ぺこりと頭を下げ て菊池家の墓を出ていった.
風に, 広げて置いた紙がなびき, 彼らの車が墓 地を出ると, 墓の前の宙にひらひらしばらくの 間漂い. やがて, 風に飛びそこから少し奥にあ る. 荒れ果てている中貴家の墓の前 —彼女が さっきついでに奇麗にした所— に落ちた. パ ラパラと落ちてきた雨が墓石に当たり, まるで 泣いている様である.
ヒューという強い風に紙が再び空高く舞い上が り, 渋滞で車が繋っている道の上を, 畑の上を 飛び. 内川の上空に来ると, ピタリと止まり川 へと落下した. 流れの面に紙が落ちると同時に 雨がザーと降りだして新河岸川は雨煙の光景と なった.
終わり.
Comment
大正十二年の大震災で, 内川の大方の舟は東京 で焼失してしまいます. 新河岸川の昭和六年~ 八年期の河川改修工事で舟の運航は絶望になり ます. ただ, この工事によって, 花川戸まで三 十六里あった曲がりくねった新河岸川が, 二十 里になり,蛇行も少なく流れが早くなりました.
この物語の最後に出てくる音韻は, 「川越船頭 唄」の民謡であり, 節回しが「千住船唄」の替 え唄と聞いておりますが, 私は唄っているとこ ろを聴いておりません.