猿沢の池

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池と柳, その背景に五重塔 —この絵葉書を 見ると, 景色が奈良であり, 池は猿沢池であ ると日本人なら無意識に呑み込む. それほど 代表的な今では奈良を代表する象徴になって いる. これら当時の興福寺境内の敷地は, 現 在では公園になっています. 「 赤鼻と竜 」 はその猿沢の池にまつわる昔から語り継がれ ている物語です.


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むかしむかし, この国の都が奈良にあった時 の話しでございます. 都のお寺の中で, それ はそれは大きな鼻を持ったお坊さんがおりま した. 名を蔵人得業恵印(くらんどとくぎょう えいん)という名前なのですが, 都の人々は誰 もその名前で, お坊さんを呼んでくれません でした. というのも, そのお坊さんの大きな 鼻は人並み以上で, 下唇辺りまで垂れ下がっ ていたのでございます. また, その垂れ下がっ た鼻の先が紅くなっていましたので, 都中の 人々は, お坊さんのことを–紅鼻の蔵人(くら んど)–などと言って, ニヤニヤ顔で話しかけ てくるのが常でございました.

そういうわけでしたので, 紅鼻の蔵人さんは 毎日を悔しい思いで過ごしていたのです. 今 日も, 鼻蔵さんはお寺の用事で街まで出かけ たのですが, 会う人・会う人や道行く人に笑 われたり. 子供にまで「わ~い, 鼻蔵が通る ぞー」って囃し立てられ, 後を付いてこられ る始末でございます. 用事を済ました鼻蔵さ んはお寺へと戻るのですが, 寺の近くに猿沢 の池と言う満面に水を貯えた池が有りました. この池の淵に立ち止まって休むのが鼻蔵さん の唯一の憩いでした.

池の水面をそっと覗くと, 波うっている水面 に, いつも大きくて長い紅い鼻の顔が映って いるのです. 何時も鼻蔵さんは, この長い鼻 のお陰で幼い時から苛められてきたことを思 い出すのでした. 大人になっても, 私はいじ められどうしだ. 私がなにをしたと言うのだ ろう, お坊さんになって, 人々が幸せに暮ら せるようにと仏様に毎日拝んでいるのに. そ う思うと, いっそう都の人々の仕打ちに悔し くてなりませんでした.



ある日の事です, この猿沢の池の縁に看板が 立てかけられていました. — 五月五日この 池より竜が昇るので危険です, 当日は池の周 りに近寄らないで下さい —と看板には書か れているのでした. さあ, それからと言うも の都の人々の噂は–竜が昇る–話しに夢中に なり, 誰も鼻蔵さんが通っても囃し立てる人 もいませんでした. 都の人々がひそひそと– 竜が昇る–をわけありげに, 此れは自分だけ が知っている事だが……等と話し ているのを見るにつけ, 鼻蔵さんは愉快でな りませんでした.

–自分が, 悪戯で書いて猿沢の池の縁に立て かけた物を–それとは知らずに都中の人達が 話題にしているとは. 考えるだけでも鼻蔵さ んは楽しくてしかたがありません. –猿沢の 池より竜が昇るらしい–という噂が都から更 に近隣の村々へとと広がり出しました. なに しろ地方から都へと行き来する人は沢山おり ましたので, 村へ帰る時の格好なお土産にな りましたから. また, 都の人達は朝昼なく猿 沢の池を訪れては, 池をそっと覗いては帰る のでした.

もう鼻蔵さんは面白く愉快でたまりませんで した. 一人自分の部屋で笑ってばかりいまし た. もとより鼻蔵さんは蔵人得業恵印という お坊さんですので, 朝昼夕のお祈りはかかせ ませんでした. 都中の人々が竜が昇る噂をす ればするほど, 鼻蔵さんは以前と違って気持 ち良く, 仏様にお祈りを出来るようになりま した. 毎日毎日, 鼻蔵さんは清々しい気持ち でお祈りできる自分を発見したのです.

日々の仏様へのお祈が晴れ晴れしい心と, そ うなると, 何の雑念もなくお経を唱えられる ようになった鼻蔵さんは生き生きとしたので ございます. 自分がでまかせに書いて立てた –竜が昇る–を, まことしとやかに語る人々 を見て鼻蔵さんは満足でした. 私の事を見れ ば, 赤鼻などと囃し立ててクスクス笑う人々 が, –竜が昇る–と真剣にこそこそと話す人 々の仕草がおかしく面白く鼻蔵さんには見え たのでございます.


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そうこうするうちに五月五日を迎えましたの でございます. まだ夜も明けない内から, 一 目で良いから–竜が昇るところを見たいと– 都から遠く離れた村々に住んでいる人達も, 猿沢の池に向かって家を出立するほどですの で, 都に住んでいる人々はなお更でございま した. –竜が昇るところを見れるとは–先祖 様へのお土産話しになると, 老人たちも, こ れも日ごろの信心のおかげ, 仏様の御利益と お経を唱えながら猿沢の池へと向かったので ございます.

中には野次馬もいましたのでございましょう けれど, 猿沢の池へと人々の列が道幅一杯に 続いたのでございます. もちろん, 近所界隈 を誘った人々の輪の列なので, それはもう, 騒々しい事は言うまでもないことです.

鼻蔵さんはあまりにも外が騒々しいので, こ んな朝早くから何事かと障子を開けて外を覗 きました. 鼻蔵さんはもうびっくりしてしま いましたのです. 道幅一杯に人々の輪が続い ているではありませんか. これは, いったい どうしたのか. 鼻蔵さん, つまり蔵人得業恵 印は道行く人々を覗きながら考えてしまいま したのございます.

すぐに, 原因は自分が立てた —五月五日こ の池より竜が昇ります— という立て札のせ いだと蔵人得業恵印は知りました. –なんと, 馬鹿な奴等だろう. あの立て札は, 私が悪戯 で立てたのに. そうとも知らずに, –竜が昇 る–と信じて見に来るとは, 鼻蔵さんは障子 の内側から道行く人々の列を見ては, ニヤニ ヤと笑うばかりでした.

朝早く起こされました蔵人得業恵印は, いつ もよりはやく朝の勤行を始めたのでございま すが. 仏様に祈っている間中でも道行く人の 騒々しい音は途切れませんですので, ふっと 不安になりだしたのでございます. まさか, 都中はもちろん遠く離れた近隣在所からも– 竜が昇る–のを見物に来るなどと, 蔵人得業 恵印は思いも及びませんでした.


–何時頃, 竜が昇るのか–とか, –天気が良 いのだから, 午後に昇る–, –いや, 昇るの は夕方である–とか, –池の真ん中から昇る はずだ–, –俺達も吸い込まれてしまうかも –, –立て札には, 危険だから近寄らないで 下さいと. 書いてあったぞ–. などと, てん でに話しをしながら人の波が猿沢の池へと向 かう様ですので, それはもう騒々しさは凄い 物でした.

えらい事になってきた. と, 鼻蔵さんは恐ろ しくなって突然震え出したのでございます. もう, あの立て札は私が書いた悪戯ですと言 う事など出来ない相談でした. 蔵人得業恵印 はだんだん顔色が青くなっていました. 人々 の輪は次から次へと–竜が昇る–猿沢の池へ と波のように続いております.

–そうだ! –自分も見物に行けば, 私が立て 札を作ったなどと疑われずにすむと, 蔵人得 業恵印は思いつきましたのでございます. 鼻 蔵さんはさっそく坊主頭を風呂敷きで隠し, 猿沢の池へと道行く人々の輪に加わりました.


猿沢の池の周辺は夜も明けないうちから, 人 々で黒山の様になっていました, お互いに押 し合いながら, 池の近くへ出ようと諍いが至 る所で起こっていました. 池淵の最前列に陣 取った人の中には, 押されて池の中に落ちる 人々も出る始末です. でも日が昇り夜が明け たのですが, 青空に一つ二つと白雲が浮かん でいる快晴の天気でした.

–なーに, 直(じき)に荒れ模様になるさ. だ いいち, 風雨の凄まじい中を竜が昇っている のが絵に描かれているからな–. えらい事に なってきた. と, 鼻蔵さんは池に来たものの さらに恐ろしくなってガタガタと身体の震え は止まりません. もう, いまさら, あの立て 札は私が書いた悪戯ですと言えない. 蔵人得 業恵印はさらに顔色を青くし人々の輪の中に いるしかありません. 日が昇りつめても人々 の波は次から次へと–竜が昇る–猿沢の池へ と川のように続いております.


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–そうだ, そうだ. こんなお日様が出ていて 天気の良い日に昇る絵など無いからな–. そ う言いあいながら黒山の人々は池の面をじっ と睨んでいるのでした. 鼻蔵さんは見に来た ものの, 自分の悪戯が大きくなってしまった から, 身体の方がガタガタと震えておりまし たが, こんどは, 池を見つめているうちに不 思議と震えが止まりました. そのうちに… …ひょっとすると, これは…… と鼻蔵さん自身も池から竜が昇るのを本当の 事のように思えてきました.


一時間経っても, 二時間が過ぎても池に映る のは, 青い空とポックリポックリと流れてい る白い雲だけです. 今か今かと池を見つめて いるうちに, とうとうお昼も過ぎてしまいま した. それでも, 青空には日様が眩しく, 白 い雲が浮かんでいる天気の良いことには変わ りが有りませんでした.

お昼を過ぎた頃になると, さすがに, 見物に 集まってきた人々の中にも疲れも出てきたせ いでしょう, 天気も良く何の変化もない池に 諦めて帰る人もちらほらと出てきました.

–おーい, これは悪戯じゃないのか, こんな 良い日に竜が昇るはずがない–, –いやいや, えてしてこういうもんだ. あまり人が集まっ たので竜も昇るに昇れないでいるのだ–. 残っ ている人々はそう言い合いながら池の面を, あいかわらず見つめているのでした.


そうこうして昼も過ぎた二時ごろ, 熱心に池 の面を見詰めていた黒山の人々も, 竜が昇る のはやはり嘘だと思い始めていた時でござい ます. 一陣の風が池を波立たせたのでござい ます–おお! これは! いよいよだ! 竜が昇る 準備を始めたのだ–と. 人々はひきつけらた ように一心に池を出しました. 誰一人として 話しをするものもいませんでした.

気がつくと上空は黒い雲が太陽を隠して走る ように広がってきていました. 風はさらに強 くなり池の面は更に高く波立ったのです. 黒 雲が濃くなり池をすっかりと覆ってしまいま したので, 辺りは暗くなりだしました. 黒山 の人々は興奮し–いよいよだ! いよいよ! 竜 が昇るぞと–と生唾をのみこみながら, 波が 荒れ狂い出している池を一生懸命見つめてい ました.

雨がパラパラと降りてきたと思ったらいっき に激しさを増した降りになり, 人々は–おお ! 竜が雨を呼び出したぞと思い–雨が目に入 らない様に, 額に両手をやって池を一心に見 つめて動かなくなりました. 雷が響き稲妻が 光り, 池の表面はますます波立ちが狂い出す ように渦巻き始め, 見ている人々はびしょぬ れながら竜が昇っていくのを待っていました.

一段と空に響き渡る雷音は大きく, 稲妻の光 りひっきりなしに辺りを青く照らし出し, 風 は激しさを増して吹き, 池の水は更に高く波 たって, 人々は憑かれたように, 竜の昇るの をいまかいまかと待っておりました.

こ一時間も人々は池を見つめていたでしょう か, それでも, 竜は一向に現れる様子が有り ません. そのうち, 雨は止み出し黒雲も去っ てしまい, 空は徐々に青空に戻ってしまいま した. 風も止み, 一心に見ていた人々は, わ けもわからず, ポカンとしているだけです, やがて気をとりもどすと–ぶつぶつ言いつつ –池を後にしました.



ひと嵐が過ぎ去ったせいでしょうか, それと も, ひと暴れが済んだせいでしょうか, 再び 戻った青空は清く澄み渡っておりました. 池 もその周りの木々もお寺さんの塔も瓦も西日 に燦然と輝いておりました. いつのまにか池 には鼻蔵さんただ独りになっていました. 気 がつくと鼻蔵さんは —五月五日この池より 竜が昇るので危険です, 当日は池の周りに近 寄らないで下さい— と書いた立て札を引き 抜いて細切れに壊していました.

かぶっていた風呂敷きでそれらの木片を石と 一緒に結び付けると, 蔵人得業恵印は池へと 投げ入れたのです. これでよし, もう, 私が した悪戯だと誰も思うまい. 西日を受けなが ら蔵人得業恵印は安堵しました. やがて, 池 を見つめながら蔵人得業恵印は集まった人々 へ思いを込めるように題目を唱えました. ど うか, 仏様の御加護が有ります様にと念じつ つ唱えていました. この時はまだ蔵人得業恵 印は自分の変化に気が付かなかったのですが, でも, いつもと自分の心が違うことはわかり ましたし, だいいちに身体が熱く感じてはい たのです.


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蔵人得業恵印は自分の部屋に帰ってきても, どうしても釈然としませんでした. 常日頃と は何かが違った, あの池で唱えた時に感じた ものは何だったのか掴めないでいたのです. 蔵人得業恵印は仏様に向かって日課の念仏を 唱えていて, はっとなりました. 「これは, なんとしたことか! 」私は! 蔵人得業恵印は 驚愕してそのまま部屋の一点を見つめたまま でした.

「南無妙法蓮華経」と蔵人得業恵印は意味の 分からない言葉を唱えていたのです. それに, 心にはあの池に集まった黒山の人々が彷彿し ておりました. 今までと違って, 仏様の前で お題目を上げていた心境が, 薄れている感じ がしてなりませんでした. 意を強くして何か に強く打たれた感じでおりました. 「仏様と は? 」「西方浄土とは? 何の為に祈りが有る のか」. 蔵人得業恵印は一点を睨んだまま石 の様に動かないでおりました.

都の人々から–猿沢の池から竜が昇る–とい う噂もいつしか消え, 忘れ去られてしまった 頃, 同じく鼻蔵さんが都からいなくなった事 も, 都の人々は気が付きませんでした. 名を 蔵人得業恵印と言う, 大きな紅い鼻を持った お坊さんの事も, その昔に鼻蔵と囃し立てて いた事も都の人々は, もう, 忘れてしまって いました.



それから時代が過ぎて, 奈良の都は京都に移 り, やがて, 政治の中心が鎌倉に移って武士 の時代になった時でございす. 一人の僧が忽 然と新しい法を人々に唱え始めました. 「南 無妙法蓮華経」と唱えなさい, 仏様の国も従 来のような仏様などいないのです. 仏様は仏 性に宿しているのです, 仏性は皆さん一人一 人が持っています. だから, 「南無妙法蓮華 経」と唱えて, あなたの仏性の中にいる仏様 に一心に祈るのです. そうすれば自分自身の 中にいる仏性が現れて, 人はみんな, 悩みや 苦しみや悲しみから救われます. あなたが仏 に変わります. 仏とはそう言うものなのです.

「南無妙法蓮華経」と一心に唱えるのです, そうすれば, 心の中に生きている仏様が四辺 に光り放ち出し, ひとは幸福になれるのです. 「仏様の為の仏教でなく, 人々全ての民衆の 為の仏教が釈迦の教えなのです, これこそ仏 教の真のあり方なのです」, 一人のお坊さん が鎌倉の市中を唱えて歩いていました.


終わり.


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後記

今日, 「民衆による民衆の為の民衆社会こそ が真の人間社会のあり方なのだ」との唱えは, 民主主義の要望なのだろうけど,ではその構築 はと唱えると多数決裁決を持ってして成り立つ. それ故に, 少数意見者は破棄される.

社会をどの様に捉えるか? 人の自由性をどう 考えるか? 人間もまた動物の一種属科の範疇 であることは, 過去の歴史から見ても歴然と 証明している.

人はどうやって動物種族から分岐して生物種 の人間として垂離を唱えているのが, もしかし たら宗教なのかも.

人間が動物種族科から垂離して行かないと. 未来へと地球の外側へと宇宙の中で永続は 出来ない. 動物のまま留まっていたのなら 地球から消滅していく生物体である.