阿弖流為

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岩手山に端を発し三陸側の峰々の流れを集め列 島の中央を南下し牡鹿半島の上で太平洋へと流 れる川がある. この北上川といえば, 確か宮沢 賢治の心を作った川でしょう, 私はよくわ知り ませんですが, 多分, 彼はこの流域に誕生して いるのでしょう?

深夜に北上川流域に佇んで上空を見上げると, 満天の星がキラキラと輝いており, 天の川の流 れと大地をくねる北上川の流れが平行している ことに気がつきます. この列島が日本以前であっ た古代の当時は, もっと美しかった情景のこと と偲ばれます.



昔々のことでございます. 倭の国が日本と称号 を成して. 日本国建設へと天皇権がゆるぎなき つつある時代の, これはお話でございます.


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桓武天皇御時

時は桓武天皇が御世のことでございます, 奈良 の都では天皇権が朝日がごとき太陽の光を浴び せ, 天皇権を継ぐ者は, この大地の続く限りそ の果てまでを己が物にする宿命が, 何時のまに か代々の天皇の血に流れるようになっていまし た.

桓武天皇も王権の覇者に就くと, この宿命を実 行に移しなされてございます, 全軍へ「この大 地が続く限り己の物とせよ」と, 歴代の天皇と 同じ発令をしましたのでございます. 既に代々 の天皇によって, 九州も四国も治めておられま してございましたが, 関東から北へ続く蝦夷の 大地は未だでございました. 広大な原生林の中 で自由に生活をする, 蝦夷の部族を支配する事 を, 自分の御世のうちに天皇家の日本国のもの へと国家の重要目標に告げたのです.

そのため, 桓武天皇は従来の都である奈良京で, 延々と続きましてございます統治のマンネリ化 を一新する為に, まったく新しき政務をの地を 京都の盆地に定め, 京都の盆地に新しき都つく りを臣下に命じましてございます.

天皇統治下の世の人々は, 新しい都の建設で仕 事が増大し, 民の人達の活気と暮らし向きは一 気に良くなりまして. 人々は希望と明日へ向け て生きる活気有る世の中だったと申し聞き及ん でございます.

一年・二年……と年が経ち, 京の都 はその壮大な町並みと, 天皇が住まわれる御所 の建物が姿が現れてございます. こうなると寺 院も商家も, 奈良の都からの新しい京の都へ京 の町へと移りざろう得なくなりもうしましたの でございます, 京の都は見る見るうちに人々の 間に流行を生み出し, 奈良の都の古典とは一線 を引いた, 新しい服装や染め色や様々な今様な デザインを生み出して, それはもう賑わいのか ぎりでございます.



天皇家に幸あれ. 桓武天皇の御世に幸あれ. 近 隣在所から京都で見てきた土産話は, 在所の老 若男女の人々までも虜にしたのでございます. 京の都に行ってみよう, 死ぬ前に一度でよいか ら噂の京の都を見て死ねたら……と 民の人々の願望でした.

さて, このような賞賛の中で独り桓武天皇は浮 かない心でいました. それは, もう一つの方の 軍への発令である. 「蝦夷の地を我が物とせよ」 が一向に捗らないばかりか, 京の町作りの建設 資金までも流用するような状況に迫っていたか らでした.

どの御大将も勇んで出征していくのですが, 最 後は, 命からがら無残に逃げ帰ってくるばかり でしたから, 桓武天皇は思い悩んでおりました. 天皇家の一大目標である, この大地の続く限り 我が物とする, に私は失敗するかもと, 京の都 の建設成功の賞賛とは裏腹に, 桓武天皇の御心 の内は日々を追って沈むばかりでございました.

そんな中で, おりしも, 征夷軍の征東大使であ る紀古佐美卿が自軍の軍将や軍兵ともども, ぼ ろぼろになって, 当時の陸奥の国から逃げ戻っ てきたのでございます.

「おーい, また, 征夷軍が逃げ帰ってきたぞ」

「うーん, 今度の征夷軍は五万と言うほどの軍 勢だったと聞くがな」

「そいつよ. 逃げ帰ってきたのは. わずか百人 もいなかったそうだ」

「蝦夷はそんなに強いのか」

「向こうには, 何しろ. 悪路王がいるからな」

「悪路王ってだれだい? 」

「蝦夷の大酋長で大墓 公アテルイだよ」

京の都も天皇統治下の市井の民も, 高貴な御公 達もこの話で持ちきりになりました事のそうで す. なにしろ, 御大将の紀古佐美卿は半狂乱に 近い状態であり, 逃げ戻れたわずかの軍将も軍 兵も, ただ唇を震わすだけで, 何も語れぬほど と. 私は聞き及んでござりまする. ただ, この 敗戦に公達の御一人が興味を持たれた御仁が居 られ申したとか.




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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征夷軍の敗戦

紀古佐美を大将とした征夷軍の敗戦が, 殊のほ か桓武天皇におかれましては大きな痛手となり もしたと聞き及んでございます. 紀古佐美の昇 殿は許されない事は申すに及ばずでございます が. なにしろ前代未聞の五万余の大軍を整えて の陸奥への侵略であり, 兵の要には天皇自らの 近衛軍を布陣した征夷軍でごさいましたので. それが, 命からがらわずか百余人しか逃げ延び られない敗走に. 桓武天皇におかれましては殊 のほかの御心痛であられますことはいかばかり の事であったのでしょうや.

「まったくもって, 紀古佐美も貧乏くじを引い た物だよ」

「それよ, 征東大使に任ぜられたばかりに, 一 命をかけて戦って帰ってきたのに, いまだに天 皇へどころか, 昇殿も許されないのだからな. とんだ貧乏くじよ」

「いやいや, まてよ. もしも, 蝦夷を政略でき たら, とんだ出世ものになる. 太政大臣は約束 されたもおなじであろう」

市井の人々も公達たちも一日中この噂話でもち きりであったと, 当時のことをそう申しており ました. さて桓武天皇はと申しますと, 何時ま でも失意に有るわけにも行かず. 国の政務へと つかの間の安らぎを求めていたと存知聞き及ん でおります.



先にも書き申した如く, 巷の噂が行きかう中で, 一人の公達がこの戦いに興味を抱いた御仁がお られもうしました. その名を田村麻呂と申す御 仁で有り申します. 田村麻呂と申せば, その色 白さ, ひげの立派さ, さらには身の丈五尺八寸, 体重三十二貫, 胸の厚みが一尺三寸もある異相 な偉丈夫なことで, 京の都はもちろん奈良の旧 都にも知らぬ御仁はおりもうせなんだ. その血 筋は帰化人東漢氏の出身で公達の中でも一際英 才コースを歩いていた御仁でもありもうします る.

そう言うことなので, 田村麻呂が逃げ帰った武 将に一部始終を聞きまわっていることは, 京の 都ではおのずと知れ渡りもうすことは, 至極当 然な事でありました.

紀古佐美を大将とし, その副将に多治比浜成, 佐伯葛城, 入間広成の五万を超える大遠征軍が 陸奥の最前線である多賀城に終結を終了したの が, 陸奥の地に雪解けが始まった三月九日でご ざいました. すぐさま全軍へ出撃の激が告げら れ, 蝦夷の胆沢を目指して北進を開始したとの ことです. 圧倒的な軍勢のせいか前進基地であ る伊治城や覚瞥城を確固たる砦とし, ここから 先である, つまり, 北上川東岸から先の大和朝 廷人も大和の人々も未踏の大地である蝦夷の天 地を展望したと話されました.

だが, 全兵とも北上川をはさんだ対岸より続く 誰も足を踏み入れたことのない大地を前に, 脚 がすくんでいたとの事でございます. 大将の紀 古佐美をもってしても, 天皇の檄文「坂東の安 危, この一挙にあり」の前進の催促がなかった ら, 引き返したい心境になるほど, 対岸の大地 は無気味な雰囲気を醸し出していたとのことで ございます. 紀古佐美は相当迷いましたらしい ですが, 自分のこの上げた手を, 蝦夷の地に向 けて下ろしたとたん, 全軍が壊滅するかもしれ ない恐怖心に震える紀古佐美を見たこともなかっ たと, 多治比浜成卿は田村麻呂に静かに話した そうであります.



「紀古佐美の君は, なぜそのように怖れていた のでござりまする」

多治比浜成卿の語りますところによりますと, かの蝦夷の地にいかなければ察する事もないは ずとのことでありますが, もとより, 蝦夷人は 誰一人として戦を好んでいない事, かつ, 他人 を支配しようとなどとの考えも持ってなく, そ の日その日を慎ましく暮らし, それで満足して いる民人であり,

そうでありますから, もとより, 領土を広げよ うなどの考えも無き部族なのです. 国家建設な どと言う考えもない民人達であるそうです. 紀 古佐美の君は学才の優れた御方なので, その事 が心に呼び覚ますのでしょうか, 蝦夷地を聖な る土地とも平和なる生活者の村とも思われてい たようでございます.

ここまで語ると「地獄だ地獄だ! 」こう言いな がら, 多治比浜成卿は田村麻呂卿の御前で発狂 していきましたそうでございます. 田村麻呂が 解せなかったのは, 戻ってきた者がなぜ発狂し ていくのか, その原因がかいもく察しがつかな いおりました. 生き残った兵は敗戦と言うより も良心の呵責に耐え切れなくなって狂っていく. がもしそうであるなら, 俺は悪路王に勝てるで あろうか, 田村麻呂は必要に一兵に至るまで, 戦で戻ってきた者を探しては話を聞いたそうで ございます.


一兵士の語り.

「紀古佐美征東大使の右腕が振り落とされ, 約 五千の徒兵が川を渡り始めました. 一列千人五 列で一斉に渡る作戦でした, 川幅は約十間程で, 水かさは少なく一番深いところで胸元程度です. 五列隊が川の中ほど胸元辺りを超えようとした 時, 対岸の森から天を蔽うほどの火矢や矢じり が次から次と飛んできたのでございます.

いえいえ, 矢の飛びが切れることは有りません でした. 青空が戻った時には, 一兵とも川には おりませんでした」


近衛兵の語り.

「あれほどの矢が一斉に放たれたのですから, 通常はもう矢の在庫は切れかかっていると判断 するのが妥当だと思いました. なにしろ, こち ら側にはまだ二万五千以上の兵がおりましたの で. 私はもう一度同じ作戦で渡りきれると思い ましたが, 征東大使の紀古佐美の卿はその日は 全軍を待機させて渡る指示はだしませんでした. 本格的な対峙の初戦を敗戦で一夜を明かすこと には, 近衛隊として忍びない事は伝えてありま した.

農夫兵達の語り. 「翌日, 私達が気がついたときには, 一列 五人の縦隊が川を渡っていました. 近衛兵 の隊列でした, 昨日と同じように矢の応戦は 凄まじい物でした. が, やはり正規軍の違 いでしょうか, 対岸に次から次と渡りつく者 が多くなりました. 約二千の近衛兵の出撃 と聞きました. いえ, そのまま対岸の援護 を行い出しました. いえいえ, 私達には渡 れの指示はこなかったです. 紀古佐美の卿 は, 続いて千五百の近衛兵に渡川を命じ, 渡 りきったら, そのまま進軍せよと指示してい ました.




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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坂上田村麻呂

さて, 今漢人の確事足る信念を受け継いでいる 田村麻呂の胸に彷彿していたのは, あの倭国と 百済連合軍が白江村浦で新羅と隋の連合軍に壊 滅的な敗戦をしたことでした.

この敗戦で天皇権の「日本国」は海までと足か せが, 王権連合に根付き, 百済は完全に歴史か ら消えていったのでございます. 天皇権の確立 と絶対性こそ今漢人の, 王権連合の中で最大の 彼岸でしたので, 海を境と狭められたのはかえ すがえすも無念の境地でした, 奈良の今漢人の 町中は火が消えた心地になりましたのでござい ます.

この敗戦を受け入れたままにしていると, とん でもない結果を天皇権に及ぼす. アテルイに俺 は勝てるか, 天皇国家をこの列島にゆるぎない 物にしなければならないが, その力が天皇家に あるのか. 今漢人が目指した, この列島に天皇 国家「日本国」建設へ, 悠然と断ち塞いだ蝦夷 の大酋長で大墓公アテルイに, 彼ら今漢人達は 生きる希望を消される思いでございましたこと でしょう.

生き残った兵を探しては聴き取りをしている, 田村麻呂卿にしても何がなんだか掴めないでい るほどでございました. ただ, 田村麻呂卿の胸 に彷彿しましたのは, 十万以上の大軍を持って しないと, アテルイの蝦夷地へは侵入はできな という漠然たる思いでございまする. それに, アテルイとは一体どんな人物なのであろうか, 会って戦ってみたい ……俺はアテル イに勝てるのであろうか? そのようでございま す.

田村麻呂は燃えるように, 今漢人の町中の技術 者へ, もっと「山間地の開墾に耐え得る鍬を開 発しろ」, もっと寒さにも耐え得る稲の実を作 れ. それが蝦夷に勝つ事だ. 日本を作る事だ. と若者を叱咤したそうでございます.



桓武天皇は征夷軍の敗戦は天皇家の威信に関わ るどころか, 日本国建設の挫折さえも意味しか けないと思しめしなされたは当然のことでござ いまする. まず, 大陸から最新の軍事知識に優 れてた, 今漢人の田村麻呂を遠征軍副将に命じ て準備を始めました. 田村麻呂は即急に, 兵士 の訓練を近江の山奥を蝦夷地と見立てて動員し, 武具の製造を今漢人の郷に行わせ, 道筋に兵量 の調達と在庫をさせ. 三年の歳月をかけて再起 を計ったのでございます.

三年と言う月日は, また, さまざまなものを変 化させてございました. 桓武天皇派が構築した 平安京は, もはや, 政府の構想を越えた都市と 人家が増加してございます. この流れはそれま での官営市を衰退させはじめ, 天皇はとうとう 国家による銭貨発行である十二銭の鋳造を終了 せざるくなりましたのでございます. 大蔵所は このため経費調達をいかにするか等々と悩みが 山積みにありましたとのことでございます.

このことから, 民衆の目を外の向けさせる事や, 日本を六十六カ国と二嶋(壱岐・対馬)体制に位 置付けと, それを土台とした地理的な相関を日 本地図とする固定体制を堅持しましたのでござ います. これには蝦夷地も当然の如く組み入れ ておりましたので, もはや, 蝦夷の大地を我が 物とせずには制度も堅持できない羽目にとも天 皇は自らを追い込まれてございまする.



「多治比浜成卿が, どうやら話せるほど回復な されたよしにございます」

田村麻呂は急ぎ卿の元へ参上しました. 勝てる はずの戦が, なぜ, 負けたのか誰もが知りたい 事のようです.

「私達は今でも勝ったと思っていますが, 結果 は負け戦になっている. 京に戻り見てその理由 の一端に触れた感じです」

「蝦夷の大地には, そのようなものは有りませ ん. 川を渡った向こうには道もなき原野林でご ざいます. 敵はそこを縦横無尽に動き回り, 枝 から枝へと, 地に頼らず動き回ることが出来ま した. 一方で我が軍はといえば, 道なき道の原 野林を隊列を組んで進行でございます. 真上の 姿が見えない彼らに右往左往するばかりです, 近衛兵が出撃すると, 彼らは脱兎の如く見えな くなるのです」

「ばかな! 道も作れぬ彼らの土木技術の無知に, 橋一つも作れぬ彼らの無知に, 今度は十万の軍 で出兵します. 蝦夷の大地を十万の軍で踏み込 めば, 彼らを威圧できましょう」

「いや, 経験から言えば, 無知だからこそ持久 戦にかければ彼らは落ちます. こちらは, 橋を かけ, 道を作り, 原野を耕地に変え富める生活 の有り様を, 蝦夷の大地に住む群落の民人に見 せれば, 彼らは, 日本国に従属してきます. 時 間をかければいいだけです」

「天皇は許されないでしょう, 自分の代に六十 六カ国の支配権を確立する為に, ましてや, 海 外の情勢も激動の様子です. 悠長な時間はこの 国にを失墜させる. ご存知のように, 大陸文字 を, 独自の日本国文字としての読みも, 六十六 カ国の人々へ日常語として, ようやく定着し始 めた時期でもございます. 蝦夷地に大陸文字が 定着するまえにも, 日本国の支配を成さなけれ ば, 大陸の唐の崩壊は直ぐそこにきているらし いですから」




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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御事二つ

天皇に幸あれ, 桓武の御世に栄えあれ. 人々の 喜びと賞賛の影に, また, 陰のひそひそ話も京 の町を駆け巡ってのことは, いつの御時でも同 じでございまする.

桓武天皇のその母方の百済系渡来血筋が, 天皇 権の傍系であるが故の宿命は, 今後も世の動き に影を落としはじめると, 一方では巷に囁かれ ていましたのも事実でございます. いわゆる, 新しき長岡京を捨て, てひた走りに平安京造営 に精進するのは早良親王とその母皇后の怨霊の 恐れからだと.

確かにでございましょうか. 桓武天皇におかれ ましては, 次から次と愛する肉親を失っていか れましてございます. 血でぬぐった皇位継承の 怨霊の御霊を静めるため, 桓武天皇は伊勢神宮 へ再三にわたり参拝するようになりました. こ こに, 以後において, 天皇家に伊勢神宮に参拝 する仕来たりが出来ましてござります. この仕 来たりが, 日本国の御事になりましてございま すのは, 平成の御世においても, 国家首相が御 事とし継承されていることは, みなみなさまに おかれてもご承知でございましょう.




さて, アテルイと言う発音ですが, 文字にする と, 阿弖流為(あてるい)でござます.


阿弖流為

馬をかければその右にでる者有るや
人心を操る術はその右にでる者有るや
蝦夷の人心を治めその数弐千なりか
しかして その弐千の人身をもってして
日本の五万の軍を破り足るなり
しかして その治める大地には
原生林の山河なりき雪深き大地なりき


日本の五万の兵が敗走へ追い兵することなく
日本が無理やりにこの大地に攻めて来る
我々から戦など一度足りとも仕掛けないのに
なぜ共存できぬのだ
涙を北上川に流しながら死者に泣いたと言う


勝ち戦に酔う部族に
阿弖流為は激怒して諌めた
お前達は日本の物を手に触れ
死者から武具を得た
お前達はもう日本に勝てない
日本は富める国だ
もっともっと大軍がやがて攻めてくるだろう
お前達はもう勝てない
俺たちは戦をしたのではない
向こうが責めてきたから防いだまでだ
北上川を血で染めた流れは
死者の家族や親族や先祖の流れぞ
お前達はそれを汚した
恥を知れ恥をしれ日本と同じではないか


神よなぜ平穏な慎ましい生活の郷が
許されないのですか
醜い争いの大地になさるのですか
阿弖流為が北上川で流した涙が
いまも聞こえてくるのですよ
ヒューヒューという風の中にね




この, 阿弖流為と同じ涙だを流し同じような文 言は, 今からどのくらい前に遡りましょうか, 多分, 百五十年前でございましょうか, アメリ カ陸軍を初めて敗戦(カスター大佐軍の壊滅)さ せた. 部族酋長シテンブル? が, 戦勝にわき酔 う部族へ, やはり同じような文言を語り悲しん でございまする.

その後, シテンブルはアメリカ政府が保護した インデアン保護地域内で白人によって殺害され てございますが. 当時相当な民間懸賞金がシテ ンブルには賭けられていたともうします. (カ スター大佐軍の壊滅)は, 陸軍令を無視し独自 に自隊へ命を発してインデアンへ戦を仕掛けた ことは, この事件を扱った陸軍の内部文書に記 載されてございます. この, 命令違反とも言う 戦を勝てると, 彼は信じたのでしょう. 勝てば, 彼はこの年に行われる大統領選に当選するでしょ うし. が, 戦の相手がシテンブルとカスター大 佐は知る良しも無かったようですし, インデア ンの方も宿敵のロングヘアー(カスター大佐)だ とは, 戦勝後知ったようでございます.




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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藤原緒嗣

申しそびれました事でございますが, 桓武天皇 の父系血筋の正統性とその重視による, 自らの 天皇即位の御事が, 日本国のその後の父系血筋 の系図優位性になりましたことも, それまでは, この列島におきまして, 久しく男女同権の思想 であり申し上げておきまする. この時期に, 先 にも申し上げたとおり, 天皇家による伊勢神宮 参拝の御行事と父系優位の確立が日本国の御事 と植え付けられてございます.



七九四年元旦, いよいよ, アテルイが予言した ように. 征東大将に大伴弟麻呂・副将軍に坂上 田村麻呂を要しました, 十万余の征東軍が都を 出征してござりまする. 馬上の田村麻呂はアテ ルイに会える歓喜の心を抑えるのに身が震えた と聞き及んでございまする.

同六月に多賀城に全軍が集結終えるやいなや, 間髪おかずに, 田村麻呂は近衛兵を先陣隊とし て蝦夷の奥地へ向けて進撃作戦を始めたのでご ざいます. アテルイとの遭遇を胸に秘めて同十 月まで蝦夷の大地を駆け巡るのですが, アテル イ本隊に会うこともかなわないなかでいるなか. 大将の大伴弟麻呂は無念の引き上げを, 天皇に 奏上せざる得ない結果に終わりましたのでござ います.

三年の月日と十余万の軍隊と多大な出費をして, 蝦夷地で得た成果は, 斬首約四百六十人・捕虜 百五十人・獲馬九十頭を持って征東軍が都に凱 旋しましたのでございます, これが, 始めて大 和軍隊が蝦夷地であげた戦勝でございます.


その夜のことでございます, 参議の藤原緒嗣卿 の館へ出向いた田村麻呂卿は, 夜通し二人でお 話になされたよしにございまする. ここで, 何 が話されたか余人の知る由もあり申せませんが, 蝦夷地での感触の全てを, 卿に話されたとは間 違いないようでございます.

七九七年に都中が驚く噂が宮中より発せられま してございます, 坂上田村麻呂が天皇と同じ権 力を持つ, 関東以北の征夷大将軍に任命される とのうわさが, 巷の噂は, ことに, 貴族の公達 から疑心暗心の様が, そのまま都の街じゅうを 流れたのでございます.

「いや, これは藤原緒嗣卿の案らしいぞ, もや は, 民からの軍費調達は限度を過ぎているよし で無理との事. 軍備の多くは現地調達で当てる, 関東以北の税でまかなえる軍隊数は四万が上限 となされたごようす」

「ここ十数年を, 長岡京造営・それから平安京 造営と, さらに, 蝦夷地への再三の出兵と. 休 まることなく続く民への徴税が, よくよく民の 苦しみと悲しみに, 藤原参議が憂いているとの ことらしい」

初めて, 成果らしい成果を都にもたらした坂上 田村麻呂は天皇の覚えもよろしく. その成果に よって, 延暦十五年一月に陸奥出羽按察使兼陸 奥守に任命され, 鎮守府将軍をも兼ねましてご ざいます.

ここに, 蝦夷地支配が坂之上田村麻呂を中心と した長期戦への方向転換がなされたのでござい ます. 征東大将でなく, 関東以北の大地を天皇 に代わって全権を任された征夷大将田村麻呂が 誕生してございます. 彼の最初の決断は, 長老 の菅原真道卿による矢のような, 直ぐにの蝦夷 出兵要請をさけました事でございます.

彼は先の出兵で, 関東以北のいろいろな豪族間 の情報を集めていましたのです. 加えて, 関東 以北の全権を天皇に代わって任されることになっ ていましたので. いがみ合う豪族同士の婚姻関 係を進めたり, 受け入れた豪族の郷には数年間 の税の免除を約束し, 奈良の郷で開発した寒冷 地や原林を開墾する農具を, 日本国統治下に入っ た豪族へ無料で貸し与えてございます.

いがみ合う郷の争いは消え, 税の免除で豪族は 富み増やし, 郷の民の生活も安住し. 富を得た 豪族は更なる原野の開墾に力を注ぎまして, 日 増しに力を蓄え, その力に田村麻呂は川に橋を かける技術を教え, 道を作る重要性を教え. 今 漢人の技術を遍く関東以北の大地へ植え付ける ことに田村麻呂卿は邁進したのでございます. まだ姿見ぬアテルイに今度こそ勝ちたい一心で. が, 藤原緒嗣卿も田村麻呂も, この時まで, 蝦 夷の大地を日本国のものとするのに, 更に十数 年もかかるなどとは思いもよらぬことでござい ました. 時に田村麻呂四一歳で参議藤原緒嗣卿 は四十代でございます.




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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アテルイ

阿弖流為

北上川に立つと
ゴーゴーと風は空を走り
ヒューヒューと風は原野に響き渡り
遠い昔のはるか遠き列島時代に
阿弖流為が流した涙の音が
混じり聞こえてくるのです
人はどうして争うのか
人はどうして平和に暮らせないのか
富など求めず
家族の平穏な日々の生活郷を
神はどうしても許されないのか


さめざめと 流す涙の音色が
ゴーゴーと在れ吹く風に
ヒューヒューと吹き荒ぶ風に
かすかに聞こえてくるのです


大地の尽きるまで日本国のものとせよ
天皇の御世に幸在れ栄え在れ
坂東の安危この一戦にあり
ひたすら富を求める一団の息吹
建国に燃える集団の息吹が大きく
私の両耳を塞いでくるのです
今はもうこの列島はその真っ只中
列島の古代は否定され
日本国の古代が教育となり
勝つまでは欲しがりませんと戦を仕掛けたり
会社へ忠誠心を捧げ家族の絆も切る社会を作ったり
神代の国が建国日となり
不夜城の栄華をひたすら追い求める一億の民人が社会




さてでございます. その昔より蝦夷の大地に住 む蝦夷人においては, 大和の中央政府などに関 わり無く, それ以前より, 自由に行動した生活 を楽しんでおりまたことはもちろんでございま しょう.

日本統一を任ずる大和朝廷におかれましては, 自分たちに従わない, この蝦夷人集団の存在が まことに不都合千万に思しめさることは当然な 結果でございます, また, 蝦夷人にしてみれば, これもまた, 大和朝廷こそ自分達の平安な生活 圏を脅かす無法なる侵略者である事は確かでご ざいまする.

ここに, 坂上田村麻呂とアテルイの激突が, 必 然的に避けられない運命でありました事はきわ みのかぎり, と申し上げる所存でございます.


蝦夷地が自由な天地である限り, 九州の豪族た ちが大和におとなしく従う謂れもなく, 征東軍 の蝦夷地占領が敗軍のたびに, 九州豪族を統治 下に置くことの苦悩が天皇政権には影のように 蔽ってございますので.

十余万の大軍をもってしても大和は蝦夷地を平 定できなかった. 九州豪族達の民意の動きは活 発になり, 大和へ服従する必要もなかろう, 自 分たちも自由な生活圏で生活様式を持っても良 いではないか.

アテルイを討てなかった大和政権圏へ列島各地 の民意の開放動きは, 長老菅原真道の暗示した 如く年とともにうねってきたことも事実でござ いもうしあげます. このまま形だけの蝦夷地征 服の政務は, 必然的に他の豪族の独立乱を誘発 する危険を察知しだし, 三ヶ月間の十余万の大 軍をもって初めて胆沢を形ばかり征服は, 一年 も経つ頃から, 主に九州地方の豪族に日本なる ものへ乱の不穏気配と流れ始めてございます.

桓武天皇は征夷の発令を坂上田村麻呂へ伝え, 関東以北の全権を天皇に代わって執行する征夷 大将坂上田村麻呂として, 後には引けない断を 下してございます. 蝦夷地支配というよりも, その実質はアテルイ討伐軍勢であります.




八○一年四万余の軍隊を持って, 蝦夷奥地へア テルイとの遭遇を目指して進軍を開始しました のでございます. 田村麻呂はもう戻る事は不可 能な位置に追い込まれてございます. アテルイ を倒さない限り都へ軍を引き返す事は出来ない 状態であり, アテルイとの戦に負ければ全滅を 覚悟のなかを, 胆沢から未知なる原野へ兵を進 めてございました. 六月の空はどんよりとして, 原始林の中を進軍するには余りにも惨めな行軍 の風情でございます.

北上川上流である志波地方を征圧した大和軍勢 は, 志波城を築き北上川流域の肥大な土地を, ようやく, 日本管轄下に成功すると, 多賀城よ り北辺の大地の基幹にすべき, 胆沢城の補強に 田村麻呂は勢力を注ぎましたのでございます.

志波城柵を築し胆沢城を頑強にした事によって, 大和政府は北上川流域の肥大な土地を完全に手 に入れたのでございますが, ここでも, 田村麻 呂の政務は抜きんでいたのございます.

蝦夷人の奴隷化を完全に禁止をし, 皇民と対等 なる民意識を大和の国に根付かすのでした. 北 上流域の肥大なる土地を蝦夷人そのものに与え, 大和国から来た移民を優遇はしませんでした. 更に, 蝦夷人の女性を狩ったものは死刑に処し てございます. それまで, 多くの蝦夷人は奴隷 として, 大和の国中へと送り込まれ, 特に, 蝦 夷人の女性は子供は都近辺へと献上されていま したご時世でございたましので.

時同じく, 平安の都の政策も応ずるように, 帰 属した蝦夷人集団を, 山陰地方などの未開地へ 皇民(天皇の民)として入植させるなど, 蝦夷人 と大和国人の平等を植え付けるのに躍起となっ て進めてございます.

翌八0二年四月十五日, アテルイとモレは五百 の蝦夷人を従えて, 多賀城に投降しましたので ございます. 北上川支流である衣川を呑みこむ 原野で, 田村麻呂精鋭隊がアテルイと遭遇し, 引き上げようとするアテルイへ田村麻呂は叫ん だそうでございます. — アテルイ! もう無益 な罪無き兵の殺しあいはよそう! — この叫び を聞き入れたのでございます. 自分の身はどう なってものよいが, 蝦夷人の安住と保障の田村 麻呂を信じたのでございまする.



「アテルイ軍が田村麻呂に降った」この知らせ は, 都はもちろんの事で大和政権下において, 名実とも「日本国」なる勝利と, 「この大地に 住む者は全て天皇の民(皇民)となす」と言う, 聖徳太子の悲願であった根流が, 桓武の御世で ようやく達成したのでございまする.

京に着いたアテルイとモレは罪人として引き回 され, 田村麻呂の坂東の統治をアテルイへの嘆 願は, 貴族たちによって無視され. なにしろ, 歴代の征夷大将の御公達以下の卿たちは, アテ ルイ憎し怨念や, 蝦夷地での己が数々の行為を (蝦夷人を奴隷狩りして), 奈良の都等々へ献上 したこと等々を, アテルイに喋られてはお困り のはずでございますし, 貴族の嘆願により天皇 の命によって河内国で処刑されましてございま する.

処刑された跡地には, 数十年間に渡って, 都の 弱女たちからの献花が耐えることはなかったと 言うことでございます. 彼女たちこそ蝦夷地で 狩られ, 大和人によって都へ売られた当時の幼 子の若き女人たちでございまする.




……はや, 月も落ち. 月影も闇に消 えますなれば, 私の語りはまたといたしまして, 今宵の事はこれにて閉じるいたしとうございま す.


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後述記

アテルイが日本の軍門に下って, すぐさま奥蝦 夷地への進撃が, 時の政権なら望むのでしょう が, ここに桓武天皇にあられましては. 今日で も有名であるところの, 「天下の徳政は?」で, 長老菅原真道と若き藤原緒嗣とを呼んで天皇の 御前で論戦させたのでございます.

ひとり, 緒嗣は初めて天皇の政務を非難したの でございます. 都造営と蝦夷遠征の出費がどれ ほど多くの民を苦しめているか, 若き緒嗣は堂 々と死を覚悟して天皇の御前で論じきったので ございます.

桓武天皇の断は, 以後の蝦夷出兵を後世代にお いてもする事を禁じ, 都の造営を止めとの詔で ございます. その三ヵ月後に桓武天皇が没し. その御子が平城天皇となって, 政治の改革を斬 新し, 下級官吏の積極的な登用を進め, 彼らを して日本国内全地へ派遣をし状況を見定めさせ てございます.

また, 報告がる弊害な高位の者を排除させ, 一 丸となって, 以後, ゆるぎなき日本国建設へと 進みましてございまする. 蝦夷人もまた全国へ 各地へ入植され, 同じく, 九州・四国・中国・ 近畿・大和等々の豪族も一族集めて, 蝦夷地へ と入植も進められてございます.

が, 平城天皇に置かれましても, 父の桓武天皇 と同じ宿命を持ち, 昔の奈良京における勢力の 怨霊か, 平城天皇も御母とその子の皇太子を, 自ら殺さなければなりませんでした. この傷心 で平城天皇は退位をなさりございました.


終わり.

Appendix A 筆者記

はじめ, 米国のパウエル国務長官の顔をTVで見た時, アテルイの顔彫面(茨城県 鹿島町鹿島神 宮蔵)が瞬時に浮かびました. その後にテロ・アルカイダの統帥 者であるビン・ラデンの顔写真をみて, 直感的に坂上田村麻呂が脳裏に走りま した.

田村麻呂はもう伝説上の人物と関東・東北ではなりましたが. 鎌倉幕府も江戸 幕府も武士政権の源流が坂上田村麻呂が関東以北で成した統治の結果であると, 源流は彼に行き着くはずでしょう. 彼は, 今漢人(いまあやと)の帰化人であり, もしかしたら当時の日本国家へ最新の軍事知識をもたらした人物かもしれませ ん. 色白な大男と私には思えて仕方なく, もしかしたらビン・ラデンのような容 姿をしていたかもと思えてなりませんです.

アテルイは, 彼をよく知りえた人物は田村麻呂しかいないかもしれません, アテ ルイの分身部下であり盟友であるモレもアテルイと同時に当時の河内国杜山で 八月十三日斬刑に処せられましたので.
坂上田村麻呂はそれを聞き及んで, アテルイの住んでいた郷(洞窟)に, 京都清水 寺に模した堂を建立し毘沙門天を祭った……唯一の救いに思えます. 毘沙門天を祭った御堂を, しかも, 清水寺をもして達谷窟に建立したのも, アテル イとモレに生きていて欲しかった, さらに, 関東以北の大地を自分に代わって統 治してもらいたかった表れと, どうしても, 思えてなりませんです.



アジアの東に位置する, この列島諸国は, わけもわからぬ神代の国から「日本」 ではありませんです. 約18,000年前アジアに起こった人類大移動で北上した人々 を基礎とし, それ以後この列島にはさまざまな地域文化をもった人々が住み始 めた. 縄文の時代は, 列島内でそれぞれの様々な地域で各文化言葉が行き交いし た社会構成を見る事でしょう.
やがて, 大陸から稲耕作が入る, 本土に住んでいた社会はそれを受け入れた. が, 沖縄と北海道に住んでいた社会は稲耕作を拒否しました. 本土社会は稲耕作をさ らに自己社会環境へ改善し始め大陸からの最先端の技術者を向かいいれる事に も精を出しました. この文化が弥生文化となり, 稲農耕による生活の安住が, 王権 社会組織を生み出し, 王権連合組織へと向かい, 天皇権による日本国家設立とこの 列島は様変わりをしていきます.

ただ, この時代の風俗でございますが, 多分動物と同じような人類環境ではなかっ たかと想います. 私の独断と偏見ですが, 動物の持っている縄張り意識依存環境で あり, 同じ(人間)種族でも自己の縄張りに入ったものは殺し合いを成したと想います. だから, 勝った者は敗者の首を切り取りその髪の毛を掴んだり, 帯に巻き付けて 他者へ見せ占めたと想われます.

戦後の日本社会;皇民 ====> 公民(+主権)になりました.

2002/12/31 吉田征夫